「怪我は」 ナターシャのパパが訊くと、おばあちゃんは、 「びっくりして、はー、腰が抜けた」 という、なかなか愉快な答えを返してきた。 そのやりとりだけで、ナターシャは、『このおばあちゃんは、普通の人と違う』と感じてしまったのである。 普通の人は、ナターシャのパパを間近で見ると、ある種のショックを受け、特定の反応を示す。 呆けるか、見惚れるか、怯え怖がるか、そのショックと反応の内容は 人によって違うのだが、とにかく 何らかのショックを受け、パパ以外の何も視界に入らなくなり、周囲のことも自分自身のことも しばし忘れてしまうのだ。 のんびりした声での『びっくりして、はー、腰が抜けた』は、普通の人の反応ではなかった。 少なくとも、ナターシャにとっては。 そんな普通でないおばあちゃんの正体は さておいて。 「おばあちゃん、歩ける? おうちに帰れる?」 歩くのが とても遅いおばあちゃんが転んで、腰が抜けたのである。 ナターシャが心配して尋ねると、おばあちゃんは、 「うん。歩けるよ」 と答えてきた。 なのに、おばあちゃんは歩き出さない。 普通、こういう場面では、助けられた人は 助けた人に『ありがとう』と礼を言って、転ぶ前の行動の続きを行なおうとするものだろう。 この場合は、助けられた人(おばあちゃん)は、ナターシャのパパに『ありがとう』を言って、ティッシュを運ぶ先(おそらく自宅)に向かって歩き出すことを始めるはず。 だが、おばあちゃんは『ありがとう』も言わないし、目的地に向かって歩き出すこともしない。 ナターシャは更に心配になって――というより怖くなって――パパの上着の裾を掴んだのである。 ナターシャの不安を感じ取ったのか、ナターシャのパパは、おばあちゃんではなくナターシャに、 「家まで送っていこう」 と言い、その言葉にナターシャは安堵した。 このまま放っておいたら、おばあちゃんは 明日になっても 横断歩道の前に佇んでいそうで、ナターシャは それが不安だったのだ。 「おばあちゃん、おうちはどこ?」 ナターシャが尋ねると、おばあちゃんは ふいに とことこと歩き出した そうして、公園前の横断歩道から移動開始。 あまりに歩くのが遅いので、次に渡ることになった横断歩道の途中から、ナターシャのパパはおばあちゃんを お姫様抱っこ。おばあちゃんは、分かれ道で進む方向を示すだけになっていた。 そんなふうにして30分ほど。 やがて、おばあちゃんは、ある一軒の家を指差し、 「ここ」 と言った。 ナターシャが チャイムを鳴らすと、50代とおぼしき女性が玄関から顔を覗かせる。 彼女は 玄関から1メートルと離れていない門扉前に立っている金髪の外人の姿を認めて訝る様子を見せた。 しかし、彼女は すぐに、見知らぬ外人にお姫様抱っこされている おばあちゃんが何者なのかに気付いたらしい。 かなり取り乱した声で、 「お母さん!」 と叫ぶや、彼女は おばあちゃん(彼女のお母さん)を迎え入れるために レバーハンドルをまわして 門扉を開け、ナターシャとナターシャのパパの許に駆け寄ってきた。 どうやら、この家がゴールで 間違いないらしい。 玄関から出てきた女性は、ナターシャのパパが持っているティッシュの箱に気付くと、いよいよ慌てて、 「お母さんたら、お母さんたら、また!」 と騒ぎながら ナターシャのパパに何度も頭を下げるという、実に器用な芸を見せてくれたのだった。 ナターシャが、 「おばあちゃんが 横断歩道で転んで起き上がらなかったから、パパとナターシャが連れてきたんダヨ」 と事情を説明すると、その女性は、 「ティッシュの箱まで持ってきてもらってしまって……」 と 恐縮しながら、顔を赤くした。 なんでも、母親の物忘れがひどくて、同じものを幾つも買ってくるので、『買い物は、たくさんあっても困らないティッシュペーパーだけを買ってくるように』と、日頃から言ってあったらしい。 おばあちゃんの大量ティッシュの謎が解けて、ナターシャはちょっと嬉しくなったのである。 『ほんとに、すみません』と『ほんとに、お母さんたら』と『ほんとに、ありがとうございました』を それぞれ10回以上繰り返して、母親を家の中に連れて行った女性は、ナターシャとパパが 公園に戻るために踵をかえすと、すぐに また家から飛び出てきた。 一冊の絵本を、手にして。 「今、うちには、ナターシャちゃんにあげられるようなお菓子もなくて――これ、前に お母さんが同じのを2冊 買ってきちゃった絵本なの。読んだことあるかしら?」 そう言って、女性がナターシャの前に差し出した絵本のタイトルは、『にんぎょひめ』だった。 表紙に、脚が魚の尻尾をした髪の長い女の人の絵が描いてある。 「ナターシャ、読んだことないヨ」 以前 本屋さんで、同じタイトルの別の絵本を見たことはあったが、ナターシャは その物語を読んだことがなかった。 『綺麗なお姫様と カッコいい王子様が出てくる?』 とマーマに訊いた時、 『お姫様と王子様は出てくるけど、二人は幸せにならないんだよ』 と言われて、何となく避けてしまったのだ。 だが、その女性は、ナターシャが『人魚姫』を読んでいないことを喜んで、絵本をナターシャの手に押しつけてきた。 「よかったわ。じゃあ、この本 もらってちょうだい。ウチの娘、北海道の大学に行ってて、2年前から あっちで独り暮らしをしてるんだけど、お母さんの頭の中では いつまでも小さな女の子のままらしくて――。1冊でもいらないのに、2冊あったってねえ」 あの普通でない不思議なおばあちゃんが わざわざ2冊も買ってきた絵本なら、この絵本には何か特別な意味があるに違いない。 ならば、読んでみなければ。 そう考えて、ナターシャは、 「ありがとうございマス」 と、絵本をくれた女性に礼を言った。 パパは無言で会釈。 その会釈が終わった時だった。 娘に急かされて一度は家の中に姿を消した おばあちゃんが、いつのまにか また玄関口に姿を見せて、しみじみした様子で、ナターシャのパパを眺めながら、 「男前だねえ。惚れちゃいそうだよ」 と言ったのは。 それまで 自発的に言葉を発することが ほとんどなかった おばあちゃんが。 色々なことが普通でない、不思議なおばあちゃん。 おまけに、『オトコマエ』という、聞いたことのない言葉。 ナターシャは、キツネにつままれた気分で、男の前に穴を掘るのか、女の後ろに穴を掘るのか、それはいいことなのか、悪いことなのか、あれこれ考えを巡らせながら、『にんぎょひめ』の絵本と共に、家路についた――のだそうだった。 |