「それで、“オトコマエ”って、どういう意味なのかなあって、ナターシャ、昨日から ずっと考えてたんダヨ」 「ナターシャは、その不思議なおばあちゃんが、氷河の前に落とし穴を掘って 落としてやりたいと言ったんだと思ったわけか。そう思ってる奴を、俺も何人か知ってるぞ。一輝とか一輝とか一輝とか」 けらけら笑って、瞬の兄の名を連呼する星矢を、瞬は軽く睨みつけた。 星矢の言う冗談を 言葉通りに受け取って、ナターシャが思い悩むことが時々あるので、ナターシャの前での発言には注意してほしい。 瞬が視線で そうたしなめると、星矢は 笑いながら謝ってきた。 まるで反省の色の見えない星矢には、あとでしっかり お灸をすえることにして、今は、ナターシャがおかしな誤解をしないように対処することの方が大事。 星矢への教育的指導より、ナターシャに正しい解釈を示すことの方を、瞬は優先させることにした。 「それは、最高の誉め言葉だよ。“惚れちゃう”っていうのは、“大好きになる”っていうことだから、そのおばあちゃんは、『あなたは素晴らしい人です。あんまり素敵で、大好きになりそうです』って言ったんだよ。氷河に危ないところを助けてもらって、おばあちゃんは、とっても嬉しかったんだろうね。『ありがとう』の代わりに『男前』だって言ったんだよ」 「うん。よかったヨ。パパが落とし穴に落ちたら、大変だったヨ。ナターシャ一人だけだと、落とし穴からパパを助けてあげられないカラ」 「ははは」 紫龍が声を出して笑ったのは、氷河が自力で落とし穴から脱出するパターンを、ナターシャがまるで考えていないことに 感銘を(?)受けたからだったろう。 ナターシャは、アテナの聖闘士としての氷河の強さを知らないわけではない。 ただ、ナターシャにとって氷河は、“大好きで、だから守りたい存在”なのだ。 「ナターシャの細腕では、氷河を落とし穴から引き上げることは無理だろうな」 「ナターシャは、その時は、マーマを呼ぶヨ。マーマは、ナターシャの百倍も力持ちダヨ。マーマがパパを助けてくれるヨ」 氷河がピンチに陥った時 どうすればいいのかを、ナターシャはちゃんと承知している。 パパより強く、頼り甲斐のあるマーマを呼ぶ。 ナターシャの聡明と賢明に感動して、紫龍は、またしても声をあげて笑うことになった。 花見の名所は、関東圏に いくらでもある。 極論を言うなら、花見などしなくても、日常生活に支障は きたさない。 それでも 紫龍たちが わざわざ光が丘公園に花見にやってくるのは、ただただナターシャを見るためだった。 花より、団子より、おしゃまで楽しい幼女。 アテナの聖闘士たちには 経験することのできなかった幸福な幼児期を、全身全霊で生きている少女。 紫龍は、花より、その幸福な光景を見たいのだった。 それは星矢も同じである。 命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間たちが築いている、普通の(?)家。 両親の揃った(?)普通の(?)家庭で、幸福に育っている元気な子供。 そんな光景を見ていることが、そんな光景の一部になれることが、星矢は楽しくてならないのである。 その おしゃまで元気で幸せなナターシャが、本日2つ目のネタの発表を開始した。 「マーマ。男前は、イケメンとは違うの? ナターシャのお友だちは、パパのこと、イケメンだって言ってるヨ」 「ぶは」 ナターシャに、“氷河をイケメンだと言う お友だちがいる”という事実だけで、星矢は盛大に吹き出してしまった。 そんな星矢に、瞬と紫龍は苦笑するしかない。 「イケメンっていうのは、“顔の造りがいい感じ”っていう意味だから、ちょっと違うかな。男前っていうのは、顔より行動が優れていることを表わす言葉だから。おばあちゃんは 氷河の顔じゃなく、転んでたのを助けて おうちまで送ってくれた親切を素敵だと思ったんだね」 「ウン!」 パパを褒められると、ナターシャは嬉しい。 パパを褒めてくれる人を、ナターシャは大好きである。 ナターシャは、不思議なおばあちゃんを大好きになったようだった。 「そーいや、“イケメン”って、“ハンサム”とも、微妙にニュアンス違うよなあ。ハンサムって、ほとんど死語っぽくて、最近、全然 聞かないけど」 「アメリカでは 死語じゃないと思うよ」 勝手に死語にされた“ハンサム”のために、瞬は擁護を入れた。 「ハンサムっていうのは、hand some ――手で扱いやすいっていう意味でしょう? 魅力的で女性の扱いに苦労しない――女性を手玉に取ることのできる、多くの女性に好意を持たれる魅力の持ち主。そういう意味だから――」 「日本では、絶滅種ってことかあ」 と、星矢が納得するのと、 「パパは、イケメンで、ハンサムで、男前ダヨ!」 ナターシャが自信満々で宣言するのが、ほぼ同時だった。 途端に、それまで、付き合いの長い気の置けない仲間同士で、言いたいことを言い合いつつも、和気藹々とした空気に満ちていたリビングルームが、不気味に不自然な静寂に支配されてしまったのである。 その場にいた大人たち(氷河含む)が、揃って、曰く言い難い沈黙を作ったせいで。 15秒以上 30秒未満という微妙な間のあと、自信満々のナターシャに、瞬が、 「そうだね」 と 応じる。 その瞬の対応に対して、 「ええーっ !? 」 と、派手に抗議の声をあげたのは、もちろん 星矢だった。 『ナターシャの前で、違うと言えない瞬の立場も察してやれ』と、声には出さずに、紫龍が星矢をなだめ、氷河当人はといえば、卑怯にも沈黙を守って、ナターシャの誤解を解こうともしない。 その日、それから 星矢は、ナターシャの誤解を是正するべく、必死に奮戦したのだが、その成果は あまり芳しいものではなかった。 「ナターシャの目をどうにかしてやらないと、いずれ大変なことになるぞ」 と真剣な顔で警告を発して、その日、星矢は瞬たちの家を辞していった。 星矢の警告など どこ吹く風で、(顔には出さずに ご機嫌で)氷河も職場に向かう。 星矢の懸念はさておいて、その日、イケメンとハンサムと男前の意味を覚えたナターシャは、光が丘で最もご機嫌で、最も幸せな女の子だったろう。 新しい知識を得ることは、子供を幸福にするものだから。 大人は、必ずしも そうとは限らないが。 |