冬と春。氷と花。技巧と情。厳格と優美。――氷河と瞬。
すべてが正反対ではないが、すべてが対照的な二人のピアニスト。
そんな二人で リサイタルを催す企画を思いついたのは、脱GAFA、反GAFA、非GAFA、超GAFAと言われる複合企業体グラード財団の若き総帥、城戸沙織だった。
脱GAFA、反GAFA、非GAFA、超GAFA。つまり、グラード財団が目指しているのは、“デジタル”ではなく“アナログ”、そして“マス”ではなく“パーソナル”なのだ。

アジア地域では最先端IT企業でありながら、脱GAFA、反GAFA、非GAFA、超GAFA。
矛盾しているようだが、最先端だからこその脱GAFA、反GAFA、非GAFA、超GAFAなのかもしれない。
グラード財団が目指す未来は、“情報と情報”ではなく、“人と人”が繋がって構築する社会。
社会貢献事業に 毎年 継続して、数十億 数百億単位の資金をつぎ込んでいるグラード財団は、日本国の第二の厚生労働省と呼ばれていた。
グラード財団が、特に家族を失った幼い子供たちのための施設の建設や 奨学金制度の充実等に積極的なのは、先代総帥が孤児だったからとも、逆に 孤児を虐げた悪行の罪滅ぼしのためだとも言われている。

そのグラード財団が資金を出して、数年前 津波で多大な被害を被った某県某市に、失われた児童養護施設と芸術ホールを再建。
その こけら落としに、氷河と瞬で二人リサイタルを。
その企画をグラード財団総帥城戸沙織が思いついたのは、何もかもが対照的な二人のピアニストが、共に、幼い頃に両親を失っているという事実を知った瞬間だった。
――と、グラード財団総帥の代理人として氷河の許にやってきた紫龍という名の青年は言った。
名前も日本人らしくなく、外見も 一見した限りでは中国人だが生粋の日本人だと、彼は自己申告した。

その紫龍 曰く。
グラード財団の社会貢献部門のモットーは、『子供は誰もがダイヤの原石』。
グラード財団の社会貢献部門は、病気、自然災害、テロ、犯罪、戦争等で両親を失った子供たちの保護、教育のための施設の運営や奨学金制度の充実に尽力している。
某県某市の養護施設と芸術ホールの再建も その活動の一環で、家庭的に恵まれない子供たちに、ただ生きるのではなく、豊かな心をもって生きてほしいと願ってのこと。
ホールの こけら落としには施設の子供たちを招待する予定でいる。
ついては、幼い頃に両親を失ったにもかかわらず、芸術分野で成功している二人に見事な演奏を披露してもらい、親だけでなく 家や心の安寧までをも失った子供たちに 夢と希望を与えてほしい――。

「かくいう俺も、グラードの奨学金で ここまで大きくなった男だ。グラードの社会貢献部門は、そこいらの企業が 社会の信頼性構築のために行なうCSRとは違って、完全に本業なんだ。『大きく儲けて、綺麗に使え』がグラードの社是。チャリティなんて綺麗事は言わないが、目的は純粋なものだ」
グラードの代理人の口調は 全くビジネスライクではなかった。
リサイタルへの出演を依頼する者のそれではない。
マネージャーには、『契約内容は申し分のないもので、書類は完璧。サインするかしないかは好きに決めていいが、サインした方がいいだろう』と言われていたので、紫龍は出演依頼者ではなく、説得者なのかもしれなかった。
歳の頃も氷河と同じ。
実際に、紫龍の態度は、過剰に へりくだった馬鹿丁寧な物言いをされるより、よほど 氷河の性に合っていた。

グラード財団のリサイタル開催の趣旨に反対する気はない。
守ってくれる親のない子供の生活と人生が過酷なことも知っている。
自分自身も苦労した。
あの頃、たまたま自分は幸運で、師に出会い、今がある。
同じ幸運は すべての子供たちにあった方がいいとも思う。
にもかかわらず、氷河が この企画に気乗りがしないのは、二人リサイタルの もう一人が瞬だという、その一事のせいだった。
直接 会ったことは、これまで一度もないが、氷河にとって瞬は因縁の相手だったのだ。

難曲ばかりを弾く自分とは対照的に、弾きやすい曲しか弾かないピアニストと聞いて、その存在を知った当初、氷河は瞬を軽んじていた。
奏でられる音は 確かに綺麗で優しく温かく、まるで母の手や胸のように 心に残り忘れ難い。
瞬の演奏は“奏でられる音楽”で、氷河の“作られる音”とは、全く趣の異なる――意味の違うものだった。
あまりに違いすぎて――瞬のそれを認めることは、自分を否定することだと、氷河は すぐに悟ったのである。

氷河は、師に見い出されて8年が経った頃――14歳の時に、
『技術的には、おまえに教えることは もう何もない』
と言われた。
『これから、自分が何を弾きたいのか、どんなふうに、何のために弾きたいのかを、自分で見付けろ。道が決まったら、そのために どんなバックアップもしてやる』
そう言われて、途方に暮れた。
実は、今も途方に暮れている。

ともあれ、師にそう言われた氷河は、進みたい道が決まったからではなく、その道を探すために 国際コンクールに出てまわり、超絶技巧派の評価を得ることになった。
氷河としては、コンクールで高い評価を得やすい難曲を選んで弾いていただけだったのだが、その演奏が完璧すぎたのだ。

17歳の時、年齢制限16歳から30歳で 5年おきに開催されるショパン国際ピアノコンクールに、一生に3回しか出場できないのなら、試しに出てみるかと考えて出場。
ショパンコンクールであるから、当然ショパンの曲しか弾くことができない。
ショパンは技巧ではなく(技巧だけではなく)、情緒の作曲家だった。
エチュード以外に 難曲がないのだ。
子供でも弾ける曲しかない(氷河の感覚では)。
一般的に難曲と言われているショパンのエチュードop.25-6、op.10-4等は氷河の好みなのだが、ショパンコンクールのルールでは、ノクターン、ワルツ、マズルカ、協奏曲を すべて弾かなければならない。
結果、氷河は、応募者500人の内、ファイナリスト10人の中には残ったが、6位入賞すらできなかった。

その時、16歳で 優勝し、その上、ソナタ賞まで受賞したのが瞬だったのだ。
一次予選から、二次、三次、決勝本選まで、演奏の日が重なることは1日もなかったので、瞬の演奏を直接聞くことはなかったが、録音を聞いた限りでは、技術的には、瞬の演奏は それほど優れているとは、氷河には思えなかった。
一次予選から本選まで ミスタッチは一度もなかったが、解釈が独創的なわけではなく、劇的なわけでもない。
全体的に平坦。ただ美しく、強く、優しいだけ。そして、包容力を感じるほど感傷的。
他のファイナリストの誰よりも美しくミスのない演奏だったが、自分より上手いだろうかと考えると、氷河は首をかしげざるを得なかったのである。

演奏する姿や場の空気に何かあったのかもしれないとは思ったのだが、実際に その場にいなかったのだから、こればかりは どうしようもない。
審査員や評論家の評価や感想は――自分以外の人間の評価や感想は――信用できない。
結局 氷河は、瞬の優勝の理由を理解できぬまま、以後 コンクールに出場するのをやめたのである。
基本的にソロリサイタル、もしくは、オーケストラと共に演奏するコンサートのみに専念。
既に技巧への評価と人気は確立していたので、ピアニストとして活動する分には、それで何の問題もなかった。

氷河のリサイタルは、鍵盤を上から映すカメラがあり、それがステージ上部にある大型モニターに映し出される。
聴衆は――否、観客は――氷河の姿と、目にも留まらぬ速さで動く氷河の指の動きに酔いしれるのだ。
リストやショパン、ラフマニノフの超絶技巧練習曲や プロコフィエフのピアノ協奏曲――難曲と言われる難曲を弾きまくり、弾き飽きて、最近の氷河の口癖は、
「誰か、俺のために、リストよりプロコフィエフより 弾くのが難しい曲を作ってくれ」
だった。

あの時 ショパンコンクールで優勝した瞬は、6位入賞も果たせなかったピアニストのことなど憶えてもいないだろうか――。
瞬との因縁を語ったわけではないのに、グラードの代理人は、
「自分の演奏に絶対の自信があるのなら、圧倒的な実力の差を示す、いい機会なのではないか?」
と言って、氷河を挑発した。






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