プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番は、2番ほどの難曲ではないが、第3楽章にアクロバティックな手指の動きを要する箇所があり、演奏の見た目が派手なので、国際コンクールでは好んで弾かれる曲である。
不協和音が多く、どう考えても瞬の好む曲ではない――つまり、弾き慣れていない曲のはずだった。

だが、瞬は、それをノーミスで弾いてみせた。
プロのピアニストでも、指の動きが間に合わずに 1本の指で鍵盤を2つ同時に叩いたり、グリッサンドでごまかす者も多い曲を、瞬は完璧に弾いてのけたのだ。
プロコフィエフが感激して 冥界から蘇ってきそうなほど完璧な演奏だった。
しかも、不思議に美しく優しく温かい。

瞬なら、どんな難曲だろうが――リストの『ラ・カンパネラ』だろうが『鬼火』だろうが、プロコフィエフのピアノ協奏曲第2番だろうが、ラヴェルの『夜のガスパール』だろうが、ラフマニノフの『大カデンツァ』だろうが――難曲を難曲と感じさせない軽快な運指で、微笑みを絶やさずに弾きこなしてみせるだろうことを、氷河は認めざるを得なかったのである。

「これだけの技術がありながら、なぜ『ふるさと』なんだ……」
『なぜ、ふるさとなんだ』とは、つまり、『なぜ、幼稚園児でも弾ける曲なのか』である。
「弾きたいからです。もちろん」
それが瞬の答えだった。

「13歳の時に、僕は 僕の先生に、技術的には もう教えることはないと言われたんです。これから、自分が何を弾きたいのか、どんな曲を、どんなふうに、何のために弾きたいのかを、自分で見付けなさいと言われて――」
「……」

ピアノ教師は――否、楽器の指導者は――否、もしかしたら、どんな分野でも師というものは、誰もが、技術や方法論を教えきった自分の弟子に対して、そういう姿勢で臨むものなのだろうか。
自分に教えられることは教えた。
これから先は、自分の意思と自分の力で進んでいけと。
氷河も 彼の師に言われた言葉。
未だに答えを見付けられずにいる師からの問い掛け。
氷河は、唇を引き結んだ。

「僕は、世界中の人たちが 争いの心や 憎しみや悲しみを忘れ、優しい心、愛の心を抱くようになる曲を弾きたいと思った。世界中の人が 幸せになれる曲を弾きたいと思った。僕が、今回のリサイタルで『ふるさと』を弾きたいと思うのは、その曲が、今回のリサイタルに来てくれる人たちの心を慰め、力付ける曲だと思うからです」
氷河が答えを見付け出せずにいる師の導きと問い掛けに、大した迷いもなく、瞬は答えを見付け出したものらしい。

(俺は何年も迷い続けているのに……)
どうにも癪でならず、氷河は ぷいと横を向いた。
「『ふるさと』でも『埴生の宿』でも『故郷の空』でも好きにすればいい」
意識して突き放すように、ぶっきらぼうに、氷河は言った。
あらゆる面で 自分より上位レベルにいる人間に 意地を張り、我儘を通すことはできない。
それは弱さや未熟を武器にする子供の振舞いである。
氷河は、瞬に折れるしかなかったのだ。

そんな氷河に、瞬は素直に、
「ありがとうございます!」
と 明るい笑顔で礼を言ってきた。
それから、少しの間を置いてから、小さな声で、
「2年前、ショパンコンクールで あなたの演奏を初めて聞いた時、僕は あなたを幸せにする曲を弾きたいと思いました」
と、はにかむように言う。

あのコンクールの優勝者は、6位入賞もできなかったコンテスタントのことなど気に留めてもいないだろうと思っていたのに、瞬は氷河を憶えていたらしい。
思いがけない瞬の言葉に戸惑い、だが、『記憶に留めていてくれて、ありがとう』と言うのも間が抜けているような気がして――氷河は無言で横を向いた。






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