「まだ四時なのに、暗くなってきたな。まあ、時計も素直には信じられないが」 瞬と和解できた途端、氷河の声には張りが戻ってきている。 言われて絵梨衣も辺りを見回した。確かに夜が近付いてきているようで、つい先程まで下草を照らしていた木漏れ日がすっかりどこかに消え去ってしまっていた。そんなことにも気付かないほど落ち込んでいたのに、眼前で繰り広げられるアヤシゲな展開に好奇心を刺激され、絵梨衣の涙はすっかり乾いてしまっていた。 「森の中だから、陽が傾くと陽の光が入ってこなくなるんだよ。喧嘩なんかしてないで、火を起こす方法を考えてればよかった」 「火? ライターならあるぞ」 氷河がGパンのポケットから取り出したライターを、瞬が無言で睨みつける。ライターの使途を追求されるのはマズいと思ったらしく、氷河は突然話を明後日の方に飛ばしてしまった。 「と…とりあえず、火の心配はやめにして、暗くなる前に星の見える場所を探そう。なっ、瞬」 「星がそんなに大事なの?」 絵梨衣が氷河の提案を受けて尋ねたせいで、氷河を問い詰める機会を逸してしまった瞬が顔をしかめる。対照的に氷河は表情が明るくなった。 「当然だろう。見慣れた星座がそれらしい時刻に頭の上にあれば、安心できる。少なくともここは日本なんだって」 「日本じゃないことがあるっていうの」 「ないだろ。おまえのファンタジー好きに、俺たちまで巻き込まれてたんじゃたまらないからな」 氷河はいつのまにか憎まれ口に戻ってしまっていたが、その方が彼らしくていいと、絵梨衣は思った。 「あんまり高い木もないな。さっきの相思樹くらいか、いちばん高いので。登ってみても意味はないか……」 瞬も、どうやらライターの使途の追求は諦めたらしい。彼は、疑惑の親友に軽く頷いてみせた。 「こんなに木があって、草も生えてて、でもその割りに空気が湿ってないから、ここ、そんなに大きな森じゃないと思う。でなかったら、僕たちは森の端っこにいるんだよ」 「そうだな。じゃ、さっきの木に登ってみるか」 「ん。じゃ、氷河、も一度僕を肩車してくれる?」 「馬鹿。おまえに木登りなんかさせられるか」 氷河は瞬の額を小突いてから、相思樹の根元へと移動した。幹を、バスケットシューズで幾度か蹴りあげ、足場を確認する。 「氷河! 僕の方が身軽だから!」 「木に登ったことなんかないだろう、おまえ」 押しとどめようとする瞬を無視して、彼はその木に取りついた。根元はしっかりしているが、上にいくに従って細くなっていく木の幹は、氷河の手が掛かるたび音をたてて軋み、葉がざわつく。絵梨衣と瞬がはらはらしながら見守る中、氷河は意外に器用に上まで登っていった。そして、張り出した枝に立ち、四方を見渡すと、またするすると降りてくる。 いちばん下の枝まで来ると――とは言っても、地表から2メートルはあったのだが――彼はそのまま地面に飛び降りた。 「10.0!」 「どーして、いちいちそういう芸をしたがるの!」 演技者の自己採点と審査員のコメントには大いなる隔たりがあったのだが、氷河はそれにはクレームをつけてはこなかった。 「なんか変だぞ、ここ。ほんとに日本じゃないかもしれない」 「え?」 演技者が、戸惑う審査員の右後方を親指で指し示す。 「そっちの方が東らしい。50メートル先くらいのとこで森は終わってる。その先は砂だけだ。西側も2キロ先3あたりで森は終わってた。ここは、直径2キロの、ほとんど円状の森で、砂漠の上に浮かんでる船みたいなもんだ。俺たちはその東の端にいる」 「砂漠? まさか」 「その先に霞んで、建物らしきものが見えた」 「……」 それがどういうことなのか――喜んでいいことなのか悲しむべきことなのかの判断ができなくて、絵梨衣は瞬を見た。瞬が持ち前の親切心を発揮して、氷河の報告の分析をしてくれることを期待したのだ。 しかし、瞬は、 「ありえない、そんなの…」 と一言呟くと、それきり黙り込んでしまったのである。仕方がないので絵梨衣は、氷河に馬鹿にされることを覚悟して、自分の疑念を彼にぶつけてみることにした。 「あ…あのさ、日本にも砂漠ってあるんでしょ。知ってるわよ、私」 「砂漠と砂丘は違うんだぞ。だいいち、鳥取砂丘の真ん中に林檎の木があってたまるか」 「で…でも、建物が見えたんでしょ。人がいるってことよね」 「らしきもの、だ。岩影かもしれない」 氷河は、あまり熱心に絵梨衣を馬鹿にしてもくれなかった。気が抜けてしょんぼりしてしまった絵梨衣に気付いて、やっと瞬がフォローに入ってくる。 「砂漠のオアシスに生えるような木でできてないんですよ、この森は。下草がぎっしり隙間なく生えてるってことは、ここにはかなりの雨が降るってことなんです。養分のある土があるってこと。オアシスっていうのは、雨が降るからできるんじゃなくて、地面の断層から地下水が湧き出てできるものだから、砂漠の真ん中にこんな森というのはありえないんです。誰かが人工的に雨を降らすようなことを――ううん、気象の操作を行なっているのでない限り」 「そ…そーなんだ」 本当のことを言うと、絵梨衣には瞬の説明は半分も理解できなかった。 (だって、実際にこうしてここに森があるのに、ありえないって言われたって……) ――というのが本音だったのだが、絵梨衣は納得した振りをした。ここで瞬にまで見捨てられてしまっては、この先が心細かったからである。 「とにかく、もう少し東に行こう。暗くなる前に適当な場所を見つけなきゃならない。今夜は野宿になる」 氷河の断言に、絵梨衣は背筋が凍りついてしまったのである。"野宿"などという単語に、絵梨衣は小説の中ででしか接したことがなかった。 |