大きな炎は人に恐怖心をもたらし、小さな炎には人の心を安らげる力がある――と、絵梨衣は以前聞いたことがあった。砂漠の海に浮かぶ森の舟の甲板でのささやかな焚き火。焚き火の五メートル先には、ミルクティーのような海が波もなく広がっている。本当なら今頃は自宅のダイニング・テーブルですき焼き鍋をつついているはずだったのにと思うと、絵梨衣の心は深く沈んでいったのだが、それでも、焚き火の炎を見ているうちに、いつのまにか自分の気持ちが凪いでいくのを、絵梨衣は感じていた。
 恐怖心を抱かせるような獣の声が聞こえてこないせいもあったかもしれない。『これからどうするべきなのか』を考えるのは、氷河と瞬に任せておけば安心だという気分になっていたせいもあったろう。
 絵梨衣の混乱は収まりかけていた。
「星も出てきたみたいねー。ここ、横浜みたいに余計な灯りもないから、星座もしっかり見えるでしょ」
 絵梨衣は、ここがどこなのかを氷河と瞬に さっさと"決めて"もらい、家に帰る方法を教えてほしかった。ミルクティーの海の波打ち際で星空を眺めている二人が、もうずっと一言も口をきいていないのに焦れて、絵梨衣は彼らの背中に声をかけた。
 絵梨衣の問いかけのせいではないたろうが、瞬の身体がふいにぐらりと揺れる。氷河がその身体を支え、支えられた瞬の口から震える声が洩れた。
「――いったい僕たち、"いつ"にいるの…」
「……なに、それ。どーゆーこと?」
 合点がいかずに問い返した絵梨衣に、氷河がぶっきらぼうな返事を返してよこす。
「俺たちは多分地球にいる…ってことだ」
「……?」
 やはり瞬の動転の訳はわからない。絵梨衣は二、三度瞬きをした。
「六月の――日本の星座じゃないんだ。ううん、それ以上に――星の輝度の違うものがある…。現代では死にかけてた星が明るい…」
「明るい…って、みんな明るいじゃない。空気、澄んでるもの。空にこんなにいっぱい星があるの見るの、私、初めてよ」
「相対的に判断して、だ! 実際に見たことはなくても、星座表くらい知ってるだろ、おまえ」
「私、六月生まれの双子座だけど、双子座がどんな形なのかなんて知らないわよ?」
 それが普通だと信じきって、絵梨衣は主張したのだが、氷河は思いきり忌ま忌ましげに舌打ちをして、ぷいと横を向いてしまった。
「氷河…宇宙の膨張率、憶えてる?」
「理論だけならな。どっちにしても分光器もコンパスもないんだ。輝度も位置も正確に把握できないんじゃ意味がない」
「春分点出した方が早いかな」
「春分点なんて258000年周期で元の位置に戻るんだぞ。ここに恐竜でも出てきた日にゃ、お手あげってことだ」
「そ…そうか…そうだね。星の明るさが変わってるんだ。十年や百年単位の話じゃないよね。で…でも……」
 瞬をそこまで取り乱させるほどの何かを、この美しい星空が語っているというのだろうか。絵梨衣は畏怖の念をもって、空を仰いだ。
「理論的にありえないよ……未来ならともかく、過去に、なんて…」
「ああ」
 心なしか氷河の声までが沈んでいる。
 絵梨衣には、彼らの言っていることが全く理解できなかった。宇宙の膨張率だの春分点だのというものが、いったい何を意味するというのだろう。今年の春分の日がいつだったのかも、絵梨衣は憶えていなかった。

「なんで未来なら納得できて、過去は駄目なわけ? 未来より過去の方がいいじゃない。もし未来なら、私たち以外の全人類が滅びちゃってるなんてこともありえるけど、過去ならそんなことなくて安心できるし」
 絵梨衣が言うと、氷河は露骨に嫌そうな顔をして、再び横を向いてしまった。おかげで絵梨衣は、また馬鹿なことを言ってしまったのかと落ち込む羽目になったのである。
 例によって例のごとく、瞬が説明を始める。
「絵梨衣さん、アインシュタインの相対性理論は知ってるかな? あれは、時間と空間がニュートンの言うように絶対的なものじゃなく、観測者の運動によって変わる相対的なものだっていう理論だよね。あの理論でいくと、観測者が速く動くと時間の進み方が遅くなることになるんだ。速く動いている人の主観で一年が過ぎる頃、遅く動いている人にとっては10年の時間が経ってるとしたら、速く動いている人は9年未来にいくことになる。これが、いわゆる未来への時間移動。理論としては、まあ、おかしくないと僕は思う」
「ん…うん…」
 絵梨衣は、はっきり言って、瞬の言うことは全く理解できなかった。が、氷河の手前、無理にわかった振りをした。
「…んとさ、ねっ、それってつまり、ものすごく速く動いたら未来に行けるってことなんでしょ。だったらすっごく遅く動いたら、過去にも行けるんじゃないの?」
「遅く動いたら?」
「そーよ!」
 思いつきで言った、この逆転の発想が気に入って、絵梨衣は身を乗り出した。瞬が困ったような顔をし、それから瞼を伏せる。瞬の窮状を見かねたらしく、氷河が突然横から口をはさんできた。
「相対性の意味が全くわかってないようだな。ふん。止まってるより遅く動く方法があるんなら、教えてほしいもんだぜ、ったく」
「あ…」
 自分の言ったことの馬鹿さ加減に気付いて、絵梨衣は真っ赤になってしまった。だが、そこで引っ込む気にもなれず、絵梨衣は再びの反駁を試みた。
「で…でも、詭弁でしょ、そんなの。不思議な力で異世界に来た…って方が説得力ある!」
「どこに説得力があるんだ」
「理解できるし、混乱しないじゃない」
「それは、理解することを放棄してるってことだ!」
 まったくもって、カチンとくる物言いをする男である。好んで敵を作ってまわっているとしか思えない。
「雪代くん…。この上、春分点って何? …って訊いたら怒る?」
 恐る恐る尋ねた絵梨衣に、瞬は、氷河と対照的に柔らかい微笑を向けてくれる。絵梨衣はほっと安堵した。
「黄道と赤道が交わる点のうちで、太陽が南より北に向かって通過する点のことです。ここに太陽の中心がきたとき、全地球上の昼と夜の長さがだいたい同じになるの。春分点は、地球の歳差運動のせいで少しずつ位置が変わってて、今の春分点は魚座にあるけど、紀元前22世紀から紀元前後までは牡羊座、紀元前44世紀から紀元前22世紀までは牡牛座にあったんです。25800年かけて、春分点は黄道を一周するの」
「……」
 正直言って、聞かなければよかったと、絵梨衣は後悔した。まずそのコウドウというものが何なのかがわからない。
「雪代くん、なんでそんなこと知ってるの?」
 感心して、ほとんど尊敬の念を抱いて、絵梨衣は瞬を見やった。
「え…」
 返答に窮した瞬の横から、また、氷河の軽蔑したような声が降ってくる。
「瞬にそんなこと訊くんじゃない! 『そんなの常識だ』なんてホントのことが瞬に答えられるはずないだろーが」
「氷河!」
 瞬は氷河を振り返り、親友のそれ以上の暴言をやめさせようとしたらしいのだが、氷河は氷河で、親友の窮状を見かねていたところだったらしい。
「おまえ、彼氏とデートする時、どこ行ってんだ?」
「はぁ?」
「エーガカンとかテーマパーク? それともホテル直行なのか?」
「なっ…なによっ! それが春分点とどういう関係があるのよっ!」
「氷河! なんてこと言うの!」
 絵梨衣が氷河に怒鳴り返したのは、もちろん、氷河の言うように『ホテルに直行』しているからではなく、その"彼氏"もいないことを氷河に悟られたくなかったからだった。"非常識"の上に"モテない女"のレッテルを貼られた日には、これから先、氷河に何を言われ続けることになるかわかったものではない。絵梨衣は、それを恐れたのである。
 だが、彼氏の有無の究明に話が及ぶ前に、瞬がその場を取りなしてくれた。
「え…絵梨衣さん、ごめんなさい。氷河は、授業で覚えなきゃならなくて覚えた知識じゃないっていう意味で、常識だって言ってるんです。僕と氷河、法科志望で、地学も選択してないから……。氷河は最近超古代史に凝ってるから、それで色々知ってるだけだし、僕なんかはプラネタリウムに行った時とかに培った知識だから、あんまり大したものじゃないんです」
「…デートで? 雪代くん、彼女いるの?」
「え…?」
 まさかそういう質問が返ってくるとは思っていなかったらしい。瞬は、一瞬瞳を見開いて息を飲んだ。10秒ほど経ってから、微かに目許だけで微笑って、
「一応」
と答えを返してよこす。
 横で、氷河が憮然たる面持ちになった。
「あれがカノジョなのか?」
「あれ呼ばわりは心外だ。僕には世界一可愛く見えるのに」
「あんなのが!」
 氷河は心底嫌そうに顔を歪めている。
 氷河や瞬の噂話できゃーきゃー盛り上がっているクラスメイトたちに、絵梨衣は一抹の同情を覚えた。
(みんな、がっかりするだろーなー。むしろ、二人がホモだって方が喜んだかも……)
 絵梨衣もまた少々複雑な気分になり、照れたように下を向いている瞬を、嘆息と共に凝視した。
「そ…そんなことは、どーでもいいから、氷河! 過去にいる以外のパターンを考えてくれる?」
 瞬は本当に照れてしまったらしく、その頬はほんのり上気している。
「異世界にいる」
「真面目にっ!」
 瞬に頭ごなしに叱責されても、氷河には、それ以上それ以外の現状分析は不可能だったらしい。瞬も、当然絵梨衣も、である。
 会話が続かなくなって、三人はともかく火の側に戻ることにした。
「眠っておいた方がいいですよ」
と、瞬は言ってくれたのだが、不安と緊張のせいで、絵梨衣はとても眠れそうになく、それは瞬たちも同様だったらしい。誰からともなく他愛のない話題が持ち出され、その話題が尽きると、また別の話が始まる。おかげで絵梨衣は、クラスの誰も知りえないような氷河と瞬に関する情報を、山のように仕入れることができた。
 氷河の父親が静岡の公立高校の校長を務めていること、瞬の家が都内で病院を経営していること、氷河の妹のこと、瞬の兄のこと。二人が聖和高校借り上げのマンションの隣同士の部屋で生活していて、二人とも弁護士志望。選択科目もすべて同じで、氷河は将来、瞬と一緒に法律事務所を構えることを目論んでいる――。
 二人の順風満帆なこれまでの人生と、希望に満ちた将来設計に、絵梨衣は溜め息しか出なかった。絵梨衣の口から出るのは親への不満や学校生活の愚痴だけだというのに、同じ高校生でこの差は何なのだろうと、絵梨衣は神様の不公平な仕打ちを恨みたくなった。
「でも、そんなプラネタリウムに通うくらい星が好きなら、なんで地学、選択しなかったわけ?」
「物理も好きでしたから……。でも、うん、僕、星は好きなの。自分がちっぽけに思えて安心するから」
「ふぇ〜」
 物理も地学も好きな高校生などというモノがこの世に存在すること自体、絵梨衣には信じ難いことだった。
 氷河の時計で午前二時。絵梨衣はさすがに眠気を覚えて、瞬きの回数が多くなってきた。
「暖かいから風邪はひかないと思うので、あまり火の側で眠らないでくださいね。火の粉が掛かって顔に火傷なんかしたら大変だから、顔を火の方に向けて眠るのはよくないです」
「あ…ありがと…」
 実に細かいところまで気のまわる男の子だと、睡魔に襲われつつあった頭で考えながら、絵梨衣は瞬の指示に従った。
 ここには自分の他には赤の他人の男が二人いるだけなのだということを恐れる気持ちは、不思議に絵梨衣の中に湧いてこなかった。ここまで親切な瞬が卑劣な真似をするはずがないし、氷河はこの見知らぬ闖入者を馬鹿な女だと軽蔑しきっているに違いない――少なくとも、そういう方面での身の危険は感じずに、絵梨衣は眠りに落ちていった。






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