第二章  廃墟





 翌朝、絵梨衣が目覚めた時、瞬はもう起きあがっていた。
 森の中での寝覚めだというのに、鳥のさえずりもない。だが、周りの空気は確かに朝のそれで、木々の葉や下草は朝露を含んでいた。爽やかな目覚めというには、あまりに身体の節々が痛みすぎているような気もしたが、ともあれ無事に夜は明けた。
 すっかり覚醒している様子の瞬は、消えかけた焚き火の始末をしている。いったいいつ眠ったのかと訝る絵梨衣に、瞬の方が逆に尋ねてきた。
「背中、痛くありませんでした? 上等なベッドとは言い難いから、あまりよく眠れなかったかもしれませんね?」
「ん…夢ばっかり見てたみたい。うちの学校でものすごくカッコいいって有名だった男の子が、滅茶苦茶口の悪い最低男で、私をアホ、馬鹿、カボチャって罵るの」
「それ、氷河のせいかな。その"ものすごくカッコいい彼"には悪いことしちゃったね」
 瞬は、自分たちの名が他校にまで知れ渡っている事実を知らないらしく、絵梨衣の夢の登場人物を取り違えた解釈をして苦笑した。
 昨夜の瞬と氷河のやり取りも夢の中の出来事だったのではないかと思ってしまいそうなほど、瞬の表情にマイナスの感情は見てとれない。彼は、書店のビニールバッグに、昨日の林檎や、他にも何種類かの果物らしきものを詰め込んでいた。
 絵梨衣の横にも幾種類かの果物が置いてある。林檎、無花果、茘枝、葡萄――そのほとんどが絵梨衣の見知っている果物ではあったが、スーパーで見る物とは色や大きさが微妙に異なっていた。
「それ、朝ご飯の代わりにしてくれますか? 僕と氷河とで手分けして毒味済みだから。お腹がへってると思うんですけど、もう少し我慢してくださいね。たんばく質は手に入らなかったの」
(たんぱく質って、お肉のことかな…?)
 言われてみれば、この妙な世界に来てから、絵梨衣は動物を一匹も見ていなかった。砂漠に囲まれたこの森に、普通ならたくさんの動物が集まってきていても不思議はないのに。
 絵梨衣がそう告げると、瞬は頷き返した。
「ええ。ですから、多分、動物にとってここよりもっと過ごしやすい場所が、近くにあるんだと思うんです。となれば、人がいることも考えられる……」
「そこに行くの?」
 瞬が袋に果物を詰め込んでいたのは、移動時用の食料を準備していたのだと、絵梨衣は理解した。
「そうしようと思ってます」
 いつまでもここにいても埒が明かないことは、絵梨衣にもわかっていた。場所を移動すれば、何か新しい展開が望めるかもしれない。絵梨衣も異議は唱えなかった。
 そこに、森の奥の方から、氷河がのそりと、まるで熊のように姿を現した。
「約10キロってとこかな。建物らしきものがあって、それから、昨日は見えなかったが、煙みたいなものが昇ってる。ただ、その周りに緑がないのが気になるな」
 氷河は、例の相思樹に登って、昨日建物らしきものがあったところを下検分していたらしかった。
「そう…」
 瞬が親友の姿を見上げ、それから再び視線を絵梨衣の上に戻した。
「僕たち、そこに行ってみようと思うんです。ただ、無駄足になる可能性もあるし、炎天下の砂漠を行く強行軍だから、女の子にはきついんじゃないかと思うんです」
 瞬が何を言わんとしているのかを察し、絵梨衣は震えあがった。
「な…何よ、それ! 私に一人でここで待ってろって言うの? 嫌よ、そんなの! あなたたちが帰ってきてくれるって保証はあるの? あなたたちに何かあっても、それ、知らないまま、ただ待ってるなんて、私、絶対嫌!」
 こればかりはたとえ瞬の頼みでもきけるものではない。絵梨衣は断固として言い切った。
 氷河が、まるでその言葉を待っていたように、顎をしゃくる。
「じゃあ、瞬を残していこう。俺一人の方が身軽だし、なにしろ脚の長さが違うからな」
 が、その提案には、瞬が真っ向から異議を唱えた。
「そんなの駄目! 氷河に何かあった時、助けてやれないなんて! ここにいれば安全なんだから、危険な方に二人行くのが当然でしょ!」
「危険だから一人の方がいいんだ。俺の安否は――たとえば、今日の日暮れまでに帰ってこなかったら、俺は死んだものとして善後策を講じるとか……」
と、そこまで氷河が言った時。
 鳥のさえずりさえない朝の森の中に、ぱっしーん! と平手打ちの音が響いた。
 絵梨衣には信じ難いことだったが、ぶったのは瞬で、ぶたれたのは氷河の方だった。
「冗談でもそんなこと言うのは許さないっ !! 」
「しゅ…」
 瞬は、その形の良い眉を思いきりつりあげて、氷河を睨みつけている。氷河は呆然として、怒り狂った親友の顔を見降ろしていた。
 そして、絵梨衣も、この展開に呆気にとられてしまったのである。瞬が氷河をぶつということ自体驚きだったが、絵梨衣には、氷河の提案が必要な取決めに思えたせいもあって、瞬の激昂に唖然としてしまったのだった。
 もちろん親友に『俺は死んだものとして善後策を考えろ』と言われたなら、それは瞬でなくても衝撃を覚えるだろう。だが、それは考えずに済ませられるものではないではないか。なにしろここは未知の世界、なのだ。
 氷河もそう考え、万が一のことを思って提案したに違いないというのに。
「しゅ…瞬…」
 しかし、氷河はどちらに理があるかなどということを言い張るつもりはないようだった。彼は突然低姿勢になって、怒りに燃えた目をして唇を引き結んでいる瞬の機嫌をとり始めた。
「わ…悪かった…! な、瞬、機嫌を直してくれ。今のはただの冗談だ。俺は殺されたって死なない奴だ」
「そーだよ! だけど、怪我はするかもしれない。だから一緒に行く。これは要求でも提案でもなく、決定だ!」
「……」
 氷河が言葉に詰まり、それから、まるで項垂れるように頷く。
 絵梨衣にはなんとなく――否、はっきりと二人の力関係が見えてしまった。
「……恐いだろ。瞬には逆らうなよ」
 声をひそめて氷河が絵梨衣に忠告してくれたのだが、もとより絵梨衣には瞬に逆らおうなどという心づもりはなかった。今なら氷河も恐くない。絵梨衣はにーっこりと笑顔を作り、氷河を見上げた。
「あなたを殴ったら、私も連れてってくれる? 私、陸上部よ。こう見えても一万メートルの選手。足手まといにはなんないと思う」
「――」
 泣きっ面に蜂の城戸氷河の顔というのは、なかなかの見物だった。







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