陽が高くなる前に、一行は森を出た。一行の構成員は、当然三人である。
 日影を作るための木の枝と、ビニールバッグに詰めた果物だけが、一行の携帯品だった。
 森から、影を作るものの何もない砂漠に一歩を踏み出した途端、気温が急に十度も上がったような気がした。湿気はないが、その分、体内から水分がどんどん抜けていくような気分になる。氷河は目的地まで10キロほどと見積もっていたが、その五分の一も進まないうちに、絵梨衣は足に疲労感を覚えた。サンダル履きだったせいもあるだろう。砂が思った以上に熱かったせいもある。普段トラックで一万メートルを40分程度で走っているのだからと、たかをくくっていた絵梨衣は、自分の覚悟が足りなかったことを痛感した。
 体力の消耗を抑えるために、氷河も瞬も口数が少ない。目的地ははっきり目に映っているのに、なかなか近付いてこない。地面から立ちのぼる陽炎のせいで視界が揺れて見え、そのために身体が揺れているような錯覚に絵梨衣は悩まされた。
 サンダルが擦れて、足が痛む。右の小指のつけ根に血豆ができたようだと自覚した途端にその豆が潰れてしまい、絵梨衣は一歩進むごとに針で刺されるような痛みに襲われた。
 5キロ――それでも絵梨衣は、5キロを必死で歩き続けた。痛みのおかげで意識ははっきりしていたが、もうここで座り込んでしまいたいと、絵梨衣は幾度も思った。
 絵梨衣がそうすることができなかったのは、瞬の勧めに逆らって自分からこの行軍に参加したという自覚があったからだし、もしここでへたりこんだりしたら氷河に何を言われるかわからないという危惧のせいでもあった。そして、それより何より、そこは砂漠の真ん中で、絵梨衣はもう後戻りできないところまで来てしまっていたからだった。
「絵梨衣さん…足、痛いんじゃありませんか?」
 心配そうに瞬が声をかけてくるのも無視して、更に1キロ、絵梨衣は意地で歩き続けた。 その1キロ、絵梨衣の足を前に運んでいたものは、ここに置いていかれるのが恐いという恐怖心だったかもしれない。
「絵梨衣さん。もう歩くのをやめて下さい。血が滲んでます」
「私、まだ歩ける!」
 絵梨衣を押しとどめようとする瞬の手を払いのけて先に進もうとした絵梨衣の前に、氷河が立ちはだかる。
「ふん。だから言ったんだ、この馬鹿が」
 案の定、氷河の口調は冷たかった。
 腹を立てて当然だと思う。思いはしたが、絵梨衣は謝らなかった。謝ってたまるものかと思った。
「まだ歩けるって言ってるでしょ! なによ、いつもなら平気なのよ。サンダルじゃなくスパイク履いてたら、あなたなんかよりずっと速く走れるんだから! 勉強ばっかりしてるモヤシとは訳が違うんだから!」
「なんだ、まだ元気じゃないか」
 それだけ言って、氷河は踵を返した。そのまま先を急ごうとする氷河の名を、瞬が縋るように呼ぶ。
「氷河……」
 その声に氷河は足をとめ、瞬と絵梨衣を振り返った。唇を噛みしめている絵梨衣と、辛そうな眼差しの瞬を見降ろし、深く長い溜め息をつく。
「…ったく。どーしてこう、俺の周りには馬鹿ばっかりいるんだ!」
 吐き出すように言って、氷河は絵梨衣に背を向け、その場にしゃがみこんだ。
「ほら、おぶってやるから、その反抗的なツラをどーにかしろっ」
「え…」
「こんなとこでぐすぐずしていられないんだよ。さっさとしろ!」
「だ…だって、そんな…」
 太陽は真上から少し西に傾き始めている。これから一日で最も暑い時刻がやってくるだろう。そして、道のりはまだ4キロ以上ある。その残りの道のりを、この口の悪い男のお荷物になって進むなど、絵梨衣には思いもよらないことだった。
 氷河の背に身を預けるのを躊躇している絵梨衣の肩を、瞬がそっと押す。
「ここで干乾しになるわけにはいかないよ、絵梨衣さん。わかるでしょ。それに、氷河、結構鍛えてあるんだよ。受験はまず体力と健康っていうのが聖和のモットーで、うちの学校、スポーツクラブは必修だし、氷河は二年の冬までバスケ部のキャプテンしてたし――」
「おまえを見捨ててったら、瞬までここに残るって言いだすに決まってるだろ。瞬におまえみてーな重いモノ背負わせるわけにもいかねーし、だから、俺がおぶってやるだけだ。好きでおぶるわけじゃねーからな! さっさとしろよ。俺は早く日影のあるところまで行きたいんだ!」
「けど…」
 ためらう絵梨衣の背を瞬が押す。
 細身の父などとはまるで違う広い背中は、絵梨衣に急に、氷河は男なのだということを意識させた。子供の頃はともかくも、小学校入学以来父の背におぶわれたこともないのに、17にもなって、同い年の男の子におぶわれることになろうとは。
 絵梨衣は恐る恐る氷河の背に身体を預けた。氷河の腕がぐいっと絵梨衣の膝を抱えあげ、そのままよろめきもせずに、彼は立ち上がった。
 瞬が、絵梨衣のサンダルを手にする。
「やっぱ、瞬の方が軽いぞ。長距離の選手なら、もう少し体重落とせよな」
「氷河!」
 瞬の鋭い声に、氷河は肩をすくめる素振りを見せた。
 絵梨衣は、この時ばかりは、氷河の言う通りもう少しダイエットしておけばよかったと、心底から思ったのである。

 目的地が陽炎の向こうに見える。歩き出した氷河の背で、それが確かに人工の建造物らしいことを、絵梨衣は見てとることができた。
 だが、目的地はなかなか近付いてこない。それが、氷河たちが自分という荷物を抱え込んでしまったからなのだと思うと、絵梨衣は涙が出そうになった。
「瞬。なるべく俺の陰を歩け。おまえ、肌、弱いんだから」
「うん、大丈夫。ここの砂、そんなに白くないから、照り返しはきつくない。氷河こそ、疲れたらちゃんと言ってね。休憩、取ろう。日陰、作ってあげるから」
 氷河と瞬が労りあっているのを見ると、絵梨衣はますます身の置き所のないような気持ちになる。そんな絵梨衣を気の毒そうに見上げる瞬に気付いたのか、氷河は鷹揚な笑い声をあげた。
「ま、瞬より重いが、かえって良かったぜ。この馬鹿が陽の光を遮ってくれるからな。おい、相沢。おまえ、背中、熱いだろ。自業自得なんだから我慢しろよ。俺は涼しくていいけどな」
 わざと言ってくれているのがわかるだけに、絵梨衣はやりきれなかった。
「あ…熱くなんかないわよっ!」
 涙声になってしまうのはどうしようもない。
 泣き顔を見るのは悪いと思ったのか、それまで心配そうに氷河の背中の絵梨衣を見上げていた瞬が、絵梨衣からすっと視線を逸らした。







[next]