祭壇の落とす影が消えた。
 絵梨衣以上に着飾ったウルカギナが、ゆっくりとジッグラトに歩み寄る。
 彼がジッグラトの階段を登り始めると、それまでざわついていた広場の中が、水を打ったように静まりかえった。
 諸都市の王が階段の下に控えている。
 階段を登りきると、ウルカギナは祭壇の正面に立ち、詰めかけた民衆を振り返りもせず、朗々と通る声でエンキ神を讃える祝詞を唱え始めた――らしい。絵梨衣の耳には日本語に訳されて聞こえるウルカギナ王のスピーチは、シュメール都市国家群の創世神話と史実がないまぜに記述された歴史の教科書の朗読のようで、はっきり言って絵梨衣はうんざりした。しかも、王の祝詞は、それから1時間以上続いたのである。
 実際はそれほどの長い時間ではなかったのかもしれないが、時計を持っていない絵梨衣には正確な時間はわからなかった。ただ、いつも眠そうな目をしているあのウルカギナがこれほど長い祝詞を暗記しているということに絵梨衣が驚き、彼を少し見直してしまうほどの時間は充分に経過した。

 長い長い祝詞が終わると、やっと王は民の方を振り返った。
 そして、あれだけ長い教科書朗読の後だというのに全く掠れていない声で、集まった民衆に告げた。
「今年のエンキ神祭には、エンキ神が蛇をお遣わし下さった」
 王が、絵梨衣の方に手を差しのべる。すぐ後ろに控えていた女に背を押され、絵梨衣はジッグラトの階段に一歩を踏みだした。
 これから自分のすべきことにばかり気を取られていた絵梨衣は、だから、階段の下に控えていた都市の王たちの間に、絵梨衣の登場と同時に緊張が走ったのには全く気付かなかった。
 絵梨衣は、帯刀を許されて階段の下に控えている男たちが何者なのかも知らされていなかった。
 重い金の装飾品のせいで、脚は軽快に動かせない。やっとのことで階段を登りきり、絵梨衣は王の隣りに立った。女たちには、ただ微笑んで王の横に立っていればいいとだけ、絵梨衣は言われていた。
 絵梨衣が祭壇の前に立つと、広場の民衆が一斉に跪く――跪こうとした。
 誤解を解くなら、今しかない。観衆が多いことにも、絵梨衣はたじろがなかった。
 そして、王が何事かを――おそらくは蛇を讃える言葉を――口にしようとするのを、絵梨衣は大きな声で遮ったのである。
「聞いてよ! 違うの。私は蛇なんかじゃない!」
 民衆は跪くのも容易でないほど隙間無く密集していたため、皆、自分が跪く空間を確保するのに難儀していた。絵梨衣が大声を張り上げた時、民衆のほとんどは、まだ立ったままだった。
「蛇は何とおっしゃったんだ」
「いや、よく聞こえなかった」
「蛇ではないと…」
「あの方は蛇ではないらしいぞ」
「蛇でなかったら何なんだ。神のお一人か?」
 まるで伝言ゲームのように、絵梨衣の訴えが、最前列に陣取った民衆から広場の後方にいる人々へと伝播していく。それまで咳払い一つ聞こえなかったドームの中で、民たちはどよめき始めた。
「こんなところで何を言いだすのだ!?」
 ウルカギナが絵梨衣の腕を取り、低い声で、まるでたしなめるように絵梨衣を責める。
「最初から言ってたでしょっ! 私はそんなんじゃないって。変な期待されても困るのよね。私、ただの高校生なんだから!」
 絵梨衣はウルカギナの手を振り払い、きっぱりと言った。
「私、家に帰りたい。城戸くんたちに会わせてよ。私が何言っても真面目に取り合ってくれないから、こんなとこでこんなこと言わなきゃならなくなったんじゃない。私、こんな大勢の人を騙す大嘘つきになんかなれないわよ」
 まさか偽の蛇が自分から正体をばらすようなことを言うとは思っていなかったらしく、階段下の諸都市の王たちはそれぞれ顔を見合わせた。
 絵梨衣の言動は、ムスタバルにとっても計算外のものだったらしい。
「あの小娘、いらぬことを!」
 ジッグラトの裏手にある出入口の脇に瞬を伴って控えていたムスタバルは、忌ま忌ましげに舌打ちをした。
「瞬様。あなたはあの娘のように余計なことは言わないでいただきたい。あなたの友人は二人とも、私どもの手中にあることをお忘れなく!」
 忠告を兼ねた命令を瞬に叩きつけると、彼は瞬を引きずってジッグラトの正面にまわり、階段を急ぎ足で登った。そして、彼は、長い間羨みつつ軽蔑していた兄の前に立った。
「王の中の王という立場にありながら、あなたは、我々を――民を、諸都市の王たちを、たばかろうとしたのか」
 それは、兄王を問い詰めるためにではなく、民衆や諸都市の王たちに聞かせるために発した言葉のように、瞬には聞こえた。
 ウルカギナは、何も、弟に答えようとはしなかった。この娘が蛇だと言って連れてきたのは、おまえ自身ではないか――とも。
 諸都市の王たちがムスタバルの後に従い、ジッグラトの階段を登ってきていた。弟と王たちに詰め寄られても、ウルカギナは狼狽の色も見せない。真っすぐに弟を見詰め返す眼差しに、愚鈍の王という印象はなかった。
 突然現れた瞬の姿に驚き、喜び、絵梨衣が彼の側に駆け寄ろうとする。
 瞬はどこかに姿を隠すよう絵梨衣に目で合図を送ったのだが、彼女はその合図の意味に気付かなかった。が、王たちの作っている人垣のせいで、絵梨衣は瞬の側に近寄ることはできなかった。
「我々が蛇の再臨を待ち望む心を弄び、その様を座興にでも見立てていたのか? よりにもよって、エンキ神の前に偽りの蛇を招こうとは、王たる者のすべきことではない」
 民衆の中からムスタバルに同調する怒号が湧き起こる。
 民の反応の速さから察するに、おそらくムスタバルが事前に自分の息のかかった者たちを民衆の中に紛れ込ませていたのだろう。そう、瞬は思った。
 だが、今はそんなことよりも、絵梨衣の身の安全を図る方が大事である。ムスタバルが兄王を責めるのに気を取られているのを幸い、瞬は絵梨衣に宮殿内に戻るように手で示した。
 ウルカギナばかりか絵梨衣までが、人々をたばかるのに一役買ったとしてムスタバルに捕らわれてしまう事態を、瞬は危惧していたのだ。
 だが、瞬の判断は、根本的に甘かった。
「偽りの王に、神の御前で罰を!」
 叫んで、ムスタバルが一歩後ろにさがる。
 代わりに前に出たのは、諸都市の王たちだった。彼らは剣を抜いていた。
「…え?」
 何が起こったのか、瞬にはわからなかった。
 絵梨衣が悲鳴をあげる。
 振り向いて、瞬は、神聖なる神の祭壇の前で何が為されたのかを知った。
 ウルカギナ王の身体が、祭壇の前に崩れ落ちる。
 諸都市の王の数と同じだけの剣が――切るためではなく、突き殺すための剣が――王の頭に、肩に、背中に、振り降ろされていた。
 瞬は悲鳴も出なかった。
 祭壇の前が血で濡れている。
 ありえない――と、瞬は思った。まさかこの場で実力行使に及ぶなど、あっていいことではない、と。
 シュメールには、後代の好戦的なアッシリアに比して国民の性状は穏やかだという印象があったし、法典も2、3発掘されている。つまり、シュメールは法治国家なのである。たとえその罪が――もとい、容疑が――いかなるものだとしても、後日裁判が行われるだろうと、瞬は考えていたのだ。
 だが、王の処刑はいともあっさり行われた。王に一言の弁明の機会を与えることもなく。
「ジウスドラに……民を……」
 最期の息を使って息子の名を呼び、蝋燭の炎が消えるように、ウルク王の命は消えてしまった。
 文明と野蛮の不自然な共存――それがシュメールなのだと、瞬は、身体の芯から実感したのである。

 王の死に、しばし呆然としていた瞬は、だがすぐに我に返った。
 王でさえ、こんなにも簡単に殺されてしまうのである。絵梨衣を、ムスタバルの手から守らなければならなかった。
「な…何よ! わ…私、何にもしてない! 自分が蛇だなんて、私、ひとっことも言ってないのよ? あの人が勝手にそう言ったんだからっ」
 血に濡れた剣を持った王たちに詰め寄られ、絵梨衣は蒼白になって後ずさっていた。ムスタバルを指し示し、絵梨衣は自分の無実を訴えようとしていたが、ムスタバルのいる場所で絵梨衣に弁解を試みさせるのは危険だと、瞬は思った。
 実際、ムスタバルは、今にも王たちに偽の蛇の殺害を命じそうな気配だった。
「だっ…駄目です! その人を傷つけることは、僕が許しません! その人は利用されただけなんです。何も知らないんです。剣を捨てて下さい。僕にこれ以上血を見せないで!」
 余計なことはするなというムスタバルの忠告に逆らい、瞬は王たちに向かって叫んでいた。
 彼らが真の蛇と信じている瞬の訴えに、王たちがひるむ。ムスタバルが顔を歪めるのが見てとれたが、瞬も、こればかりは譲歩できなかった。
 瞬のでしゃばりは気に障ったのだろうが、ムスタバルは、さすがに彼らしく如才なく事態の収拾に取りかかった。今の彼には、絵梨衣の生死より、自らがウルクの王になることの方が重大事だったせいもあるだろう。
「なんというお優しいお心。民よ、安堵するがいい。真の蛇は、私の招喚に応じて下さった。こちらが、我等が待ち望んでいた真実の蛇。諸都市の王もご承認下さった」
 ムスタバルの宣言を機に、諸都市の王たちが自らの足元に剣を置き、そのまま数歩後ろに下がると、瞬に向かって跪く。
 瞬は複雑な気持ちで王たちの最敬礼の様を見降ろし、絵梨衣は当惑した面持ちを瞬に向けた。
「雪代くんが…蛇?」
 瞬はムスタバルの威嚇の視線を無視して、絵梨衣の側に歩み寄った。
「氷河が人質に取られてるの。ムスタバルは僕を蛇に仕立てあげて、自分が王になりたいらしい」
 瞬の囁きに覆いかぶさるように、ムスタバルを讃美する民の歓声がドーム内に満ちる。ムスタバルの部下たちの煽動は、実に巧みだった。
 そこまで用意周到なムスタバルが狡猾に過ぎたのか、死に至らしめられるまで弟の叛意に気付かずにいたウルカギナが愚かすぎたのか――。いずれにしても、瞬は、兄弟のどちらの生き方にも、共鳴できるものをかけらも見い出すことができなかった。
「真の王、ムスタバル!」
「これまでの災害は、蛇の意にそぐわぬ偽の王が王座に就いていたためだったのだ!」
「我らは救われる! 蛇が真の王をお連れ下さった!」
 歓声はいつまで経っても止む気配がない。
 狡猾で卑劣な王を戴くことになったウルクの民の前途より、氷河の安否の方が気掛かりな自分が卑小に思えて、瞬はやりきれない気持ちになった。







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