「絵梨衣さん…絵梨衣さん、どうかしました?」 「えっ? なに?」 瞬に名を呼ばれ、慌てて顔をあげた絵梨衣の目に、瞬の大きな瞳がとびこんでくる。 絵梨衣の心臓は、思いきり撥ねあがった。正直、止まるかと思った。 「その指輪がキーなんだそうですよ。絵梨衣さんが開けますか?」 「あ…キ…キー?」 見ると、ジウスドラたちは、高さ3メートルほどの小山の前に立ち、怪訝そうに絵梨衣を見詰めている。小山には、半分以上が樹木の枝で覆われた薄い薔薇色の扉があった。紅水晶のようなものでできているのかもしれない。扉を作る石自体は透き通っていたが、扉の向こう側は透けて見えない造りになっている。 「多分、ここにはめ込むのだと思います」 ジウスドラが、扉の左下にある丸い窪みを指し示して、絵梨衣に言う。絵梨衣は、自分で扉を開けるつもりなどなかったし、それ以上その指輪を持っているのも恐ろしかったので、まるで押しつけるようにチェーンごと指輪をジウスドラに手渡した。受け取ったジウスドラが、チェーンを引きちぎって指輪だけをつまみあげ、扉の窪みにはめ込む。 出来の悪い冗談のようにあっさりと、薔薇色の扉は音もなく上にスライドして開き、一行の進入を許してくれた。 氷河が先頭をきって、薄暗い空間に一歩踏み込む。途端に扉の向こう側は白光に包まれた。センサーが、人の動きを察知して、照明のスイッチを入れたような感じだった。 「中、どうなってるの?」 絵梨衣が氷河の後に続く。 二人を追って瞬が中に入ろうとした時、瞬はふいにジウスドラに引き止められた。 「ジウスドラくん…?」 何か不都合でもあるのかと振り返った瞬を、思い詰めたような目をしてジウスドラが見上げる。 「どうか…したの?」 瞬が尋ねても、少年はただ無言で瞬を見詰め返すだけである。 とうに母は亡く、今また父も亡くなった世界に、たった一人で残されるのが辛いのかと、瞬は思った。 「…僕たちと…一緒に来る?」 それが許されることなのかどうかは別として、瞬はそう言わずにはいられなかった。 小学校を卒業したかしないかくらいのの小さな男の子に、これからこの世界で起こるだろうことのすべてを背負わせるのは、酷なことのように思われたのだ。 だが、ジウスドラは首を横に振った。彼が気遣っていたのは、これからの自分の運命ではなく、瞬の身だったのだ。 「瞬さん、こちらに残って下さいませんか」 「え?」 「…まもなく僕たちの――蛇に与えられた文明は滅びます。でも、それは世界の終わりじゃない。少数は生き残り、生きのびることはわかっています。けど、瞬さんの戻る世界にやがて訪れるのは、完全な終末です。世界自体が消滅し、生きのびるものは何もない。人間も動物も植物も、みんな消え去るんです。そんなところに、あなたを帰したくありません…!」 「ジウスドラ…」 思いがけない申し出に、瞬は瞳を見開いた。瞬に向けられるジウスドラの眼差しは真剣そのもので、瞬はひどく戸惑った。 「残って下さい…。僕…僕はまだ小さな子供ですが、すぐ青年になります。氷河さんより力強い男になり、あなたを守ってみせます。お願いです。あなたが側にいてくだされば、僕、どんな苦難も乗り越えていけるような気がするんです!」 「あ…で…でも、僕は、肉体的に不完全なただの人間で、何の力もない存在なんだよ」 言い聞かせるような瞬の口調に、ジウスドラがきっぱりと答える。 「あちらに帰ればそうかもしれません。でも、こちらにとどまれば、あなたは神です。いて下さるだけで、民はあなたに希望を見い出すでしょう」 「……」 そんなことができるはずがないと、瞬は思った。 だが、もし自分がこの世界に残れば、氷河に好きだと告げられた時からずっと胸の中にあった、あの恐ろしい不安だけは現実のものにならずに済む。いつか自分が氷河の負担になるかもしれないという、あの恐ろしい不安が実現することはないのだ――。 瞬の心は揺れた。 瞬の迷いを見透かしたように、ジウスドラが瞬の手を取り、唇を寄せてくる。 「お願いです。僕の命のすべてをかけて、大切にします。僕に力を与えて下さい」 「あ…」 なぜその手を振り払うことができないのか――瞬は動けなかった。ふいに、ジウスドラが何かに驚いたように息を飲むまで。 ジウスドラの視線を辿り、そこに氷河の姿を見い出して、瞬の身体は一瞬硬直した。 氷河は、怒りに熱くなった目を瞬とジウスドラに向けていた。 恐くなって、瞬が身をすくませる。 だが、堅く強張っていた氷河の表情から、すぐに怒りの色は消えてしまった。 氷河にはわからなかったのである。何が、瞬にとっての幸福なのか、が。これまで何を言っても、何をしても、瞬の中から不安が消えてくれることはなかった。瞬の心はいつも不安定で、風のない日に地上に降りてくる淡雪のように揺れていて、どうすればしっかりと支えてやれるのかも、氷河にはわからなかった。それが自分のせいだということだけは感じとれるからなおさら、氷河にはどうしてやることもできなかったのである。 『俺と一緒に来い』と、ここで瞬に言ってしまったら、これまで以上に瞬を苦しめることになるのではないかと思うと、氷河は言葉を発することもできなかった。 |