「城戸くん! なに、ぼけーっとしてんのよっ!」
 絵梨衣の怒声が氷河の背を押さなかったら、
 氷河は一生無言でその場に立ちつくしていたかもしれない。
「早くこっち来いって、言ってあげなさいよっ。雪代くん、待ってるでしょっ。城戸くんがそう言ってくれるのっ!」
「あ…」
「なによっ。小難しいご託は並べられるくせに、そんな簡単なセリフも言えないの!? そんなんじゃ、雪代くんの"彼女"失格よっ」
 絵梨衣に叱りとばされて氷河はやっと、自分が何をすべきなのかに思い至った。彼は、ゆるゆると、まるで何かを恐れるように、右の手を瞬の方に差しのばした。
「しゅ…瞬……」
 声が掠れている。
「こっちに来るんだ…」
 懇願するしかないではないか。瞬の不安を拭い去ってやることは永遠にできないかもしれないが、それでも側にいてほしい――と。
「頼む…瞬…」
 情けないくらい下手【したて】に出ている氷河に苛立ったのは、絵梨衣である。あまりに腹が立って、絵梨衣はジウスドラを怒鳴りつけてしまっていた。
「自分たちのせいでこうなったんでしょ。自分たちの力で乗り越えればいいじゃない。この期に及んでまだ、他人の力を借りようっていうの!? 城戸くんはねっ、雪代くんがいないと、ただの口の悪い最低男になっちゃうのよっ。そんなの、かわいそうでしょっ!」
 随分容赦のない声援だったが、それでもそれは氷河の後押しには十二分に役立ったらしい。氷河は、今度ははっきりとした口調で瞬に言うことができた。
「瞬、こっちに来い。おまえは俺と行くんだ」
「……」
 本当にそうしてもいいのかと、瞬が目で問う。
 氷河の眼差しは、彼の告げた言葉と同じことを瞬に答えていた。
 瞬は――瞬は、その眼差しに抗いきれるほど、強くもなければ頑なでもなかった。
 ジウスドラに視線を落とし、瞬は言った。
「――僕…僕ね。君がこの世界を救いたいように、僕も僕の生きてきた世界に責任を持ちたい。僕は僕の世界に戻って頑張るから、君も頑張って」
 蛇は、シュメールの人々を楽園から追放しようとしている。
「瞬さん…」
 だが、この蛇は、どれほど慈悲深い神にも劣らないほど優しく切ない目をしていた。
「…ごめんね。僕、氷河がいてくれないと駄目なんだ。多分、一人でこっちに残っても、君の力にはなれないよ」
 最初にこの世界に現れた蛇も、こんなふうに切ない目をして、この世界を去っていったのだろうか――恋のために、蛇の愛した英雄と共に。
 寂しさを覚えないと言えばそれは嘘になるが、ジウスドラには、これ以上瞬を引きとめることはできなかった。
「すみません。瞬さんの答えはわかっていたんです。瞬さんを困らせるつもりはなかったんです。……忘れて下さい」
「うん…。でも、きっと君のことは忘れられないから…」
「……嬉しいです」
 瞬は微かに微笑んで、それから、恐る恐る氷河を振り返った。
 氷河は、信じられないものを見るような表情で、瞬を見つめている。
 瞬は、ためらいがちに氷河に歩み寄った。
 氷河はその手を伸ばし、瞬の腕を掴むと、そのまま力の加減もせずに瞬を引き寄せた。
 氷河と瞬が向かい合い見詰め合ったまま、いつまでも黙って口をきかないでいる理由が、絵梨衣はすぐにはわからなかった。何か気のきいたセリフの一つや二つ言えばいいのにと焦れてから、彼らがそうできない訳に思い当たった絵梨衣は、人指し指で鼻の頭をこしこしと擦った。
「あ、ごめんねー。もしかして、私、お邪魔してる? いいのよ? 私、ちっとも気にしないから、キスくらいしたって」
 絵梨衣がからかうように言うと、氷河と瞬の間で張りつめていた空気が、目に見えて緩んでいった。氷河が、平生の彼らしい表情に戻り、わざとらしく肩をすくめる。
「おまえが気にしなくても、瞬が気にするんだよ」
 氷河は苦笑いして、瞬を見やった。
「いーさ。俺は我慢強くできてるんだ。どうせ大学に入るまではHもお預けって言われてるし」
「ひ…氷河っ!」
 瞬が、途端に真っ赤になる。
 絵梨衣の目にも、瞬は恐ろしく可愛く見えた。
 なぜか、ふいに――絵梨衣の肩から力が抜けていった。

「ジウスドラ」
 氷河は、頬を染めている瞬をしばらく見詰めていたが、やがて、思いついたように口を開いた。真顔を、ジウスドラに向ける。
「俺たちの知っているディルムンの楽園伝説は、大洪水の後にできたものだ。楽園は消えるんじゃない。多分、これから、おまえたちが作るんだ」
「はい」
 ジウスドラは深く頷き、それから、彼は羨望の念を込めて氷河を見た。蛇に愛され、力を与えられている幸運な男を。
 妬ましさを覚え、だが、すぐにジウスドラはその感情を否定した。そんな感情を、これからの試練を乗り切るための力の源になどしたくなかった。







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