その日、僕は基臣さんに見付からないように、ロス行きの飛行機の搭乗手続きをして、ビジネスクラスのシートに落ちついた。そして、飛行機が離陸して初めて、基臣さんのいるファーストクラスのフロアに移動したんだ。 「社長」 僕に声をかけられて振り返った基臣さんは――一瞬絶望的な目をして、僕を見た。基臣さんらしくなく動揺を隠しきれずに、シートの背もたれに置かれた手が震えていた。 「基臣さん…? どうか…したんですか?」 思いがけない展開に、僕はつい、社長室副室長から、ただの弓崎瞬に戻ってしまっていた。慌てて言葉を飲みこもうとしたが――いや、僕はそうしようとしなかった。周囲に人がいなかったんだ。ビジネスクラスの客もまばらだったが、ファーストクラスにいたっては、基臣さん以外の人影が一つもない。 「供はいらないと言っておいたはずだ」 「はいそうですかと、社長をお一人で視察に送りだせるはずがないでしょう。社長が軽んじられてしまいます。チケットは室長が手配してくれました」 「……」 正論を述べたつもりでいたが、基臣さんはすぐには肯かなかった。 しばらく無言で僕の顔を見詰めていたが、やがて彼はゆっくりと目を閉じた。 「運命には逆らえない……か」 独り言のようにそう言って、彼は僕に隣りのシートに座るように手で示した。 「あ、でも、他の客の――?」 「正規のルートで手に入れられるこの飛行機のシートは、ほとんど私が買い占めた」 「なぜ、そんなことを?」 「意味はない」 基臣さんが意味のないことをする人じゃないことは、僕がいちばんよく知っている。僕は、訝りながら、基臣さんの横のシートに腰をおろした。 しばらく沈黙が続いた。基臣さんがまた目を閉じて、シートに身を沈めてしまったからだ。 窓の外には雲海がひろがっている。白く明るすぎる雲の波が、妙に僕を不安にさせた。 基臣さんは、僕が勝手についてきたことを怒っているんだろうか。僕が氷河の前で取り乱すかもしれないと懸念しているんだろうか。 基臣さんにそんなふうに思われているかもしれないと考えることは、僕には辛いことだった。 ふいに、基臣さんが口を開く。 「瞬。おまえ、もしかして、私が氷河に会いに行くのだと思ってついてきたのか?」 「ち…違うんですか!?」 反射的に聞き返した僕に、基臣さんはあっけにとられたようだった。基臣さんのあっけにとられた顔なんて、僕はその時初めて見たように思う。 基臣さんは、それから、ひどく苦しそうな眼差しを僕に向けてきた。 「――そんなに氷河に会いたいか…」 「……」 基臣さんは僕を責めているのだと思い、僕は顔を伏せた。 だが、そうではなかったらしい。シートのアームを握りしめていた僕の手に、基臣さんの手が重なる。基臣さんは宙を見詰めたまま、ぼくに話しかけてきた。 「昔――おまえの父親の話を聞いた。彼は、生まれ変わって、おまえの父親になったのだと。おまえは――もし、それが叶うのなら、どんな人間に生まれ変わりたい?」 「え?」 その時、機内に激しい揺れが起こった。飲み物サービスのために客室に入りかけていたスチュワーデスが、ぎくりとその場に立ち止まるのが見え、それと同時に、機長のアナウンスが機内に響く。 救命具をつけるようにと言っているようだったが、基臣さんはシートから立ちあがろうともしなかった。 窓の下には、白く明るい雲の海――。 「誰に生まれ変わりたい――?」 僕は――僕はその時、自分の運命を知った。 「氷河のお母さん」 スチュワーデスが僕たちの方に駆け寄ろうとして、また大きな揺れに阻まれる。 氷河のお母さん――それが、僕の夢だった。 世界中の誰よりも氷河を愛する権利を持っている人。罪悪感も哀しみもなく基臣さんの胸に抱かれ、歓喜することのできる人。氷河に愛され、基臣さんに愛される、世界で最も幸福な人――。 基臣さんは僕を見ていた。 僕をじっと見詰めていた。 彼の手が僕を抱き寄せようとして、僕の腕に伸ばされる。 白い雲は、炎で見えなくなっていた。 「では、おまえの望みを望むがいい。それが叶えば、俺はもう一度おまえに出会える」 最期の瞬間、僕は確かに、基臣さんの胸に抱かれていたと思う。 |