翌日、僕は、白いワンピースを着て、一人で帝国ホテルに赴いた。 暖かい春の日射しに誘われたのか、ホテルの前の日比谷公園には散歩を楽しむ人たちがたくさん出てきていて、広い園内のどこからか子供の笑い声が聞こえてきた。兄弟らしい男の子が二人、園内を横切ってホテルに向かっていた僕の脇を通り過ぎていく。 その二人の上に、幼かった頃の僕と氷河とを重ね見て、僕は歩みをとめた。 弓崎瞬にとっては、あの頃がいちばん幸福な時期だったのかもしれない。そして、折橋早雪としての幸福を求めて、僕はこれから基臣さんの許に行く。そのためになら、僕はどんなことでもできるだろう。誰を敵にまわすことも恐くなかった。 ホテルのフロントで基臣さんのルームナンバーを尋ねると、フロント係は、フロントの脇のラウンジを指し示した。ティーサービスのあるラウンジのテーブルは客でほとんど埋まっていたが、その中にすぐ基臣さんの広い背中を認め、僕はフロント係に礼を言ってラウンジに向かった。 「高生加さ…」 声が途中で凍ってしまったのは、彼が一人でないことに気付いたからだった。基臣さんは、沢渡博と同席していたんだ。 「――泥棒猫の息子は、やはり泥棒猫だな。金持ちの家の娘とわかると、すぐ色目を使う。だがな、おまえみたいな妾の子が、どんな汚い手を使ってきても、折橋の社長が、どこの馬の骨ともしれない男に娘をやるはずがないんだよ!」 すぐ側に僕が――折橋早雪が――いるのにも気付かず、沢渡博は基臣さんをなじっていた。いや、僕だけじゃなく、ラウンジにいる他の客にも聞こえるような大きな声で――きっとわざとだ――沢渡博は基臣さんを侮辱していた。 基臣さんは何も答えない。 その横顔は、全くの無表情だった。 おそらく、基臣さんは、沢渡博の下卑た憶測に反論する気も失せてしまっているのだろう。 僕はかっとなって、二人がいるテーブルの脇につかつかと歩み寄った。そして、とっておきの上品な微笑をその顔に貼りつけた。 「あら、偶然ですね、沢渡さん。先日は失礼いたしました」 「え? あ、これは、折橋さんの――」 下の名前までは憶えていないらしい。腰を浮かしかけた沢渡博が完全に立ちあがる前に、僕は思いっきり派手な音を立てて、彼の頬に平手打ちをお見舞いした。 「ついでですから、今日も失礼してしまいます。お怒りにはなりませんわよね。あなたは私以上に失礼な方のようですし」 にーっこりと微笑した僕を、沢渡博は目をつりあげて睨みつけてきた。 だから、僕も睨み返した。 正妻の息子だからって、それだけのことで基臣さんを侮辱するような奴、殴りとばされたって当然だ。 「何をする!」 生意気にも沢渡博は口答えしてきた。彼は自分がなぜぶたれたのかもわかっていないらしい。 「あなたは、ぶたれて当然のことを基臣さんに言ったんです! あなたは自分を何様だと思ってるんですか! たまたま父親が沢渡運輸の社長で、たまたま母親が正妻だったからって、自分も偉いんだと勘違いしている、思いやりも優しさもないただの大馬鹿者じゃないか! 基臣さんは――基臣さんは、あなたなんかに侮辱できるような人じゃないんだ! あなたなんかよりずっと強くて、才能があって、優しい人なんだ! 今度あなたが基臣さんを侮辱したら――」 『僕が許さない!』と叫びかけた時、僕は、基臣さんが目を見開いて僕を見詰めているのに気付いた。その途端、それまで滑らかだった舌がまわらなくなって、僕は弾みで舌を噛んだ。 けど、そんなことで喋るのをやめるわけにはいかない。僕は今度は基臣さんに向き直った。 「基臣さんだっていけないんです! 基臣さんが、こんな思いやりのない馬鹿、軽蔑しきっていて口をききたくない気持ちもわかりますけど、馬鹿には馬鹿って言ってあげないと、いつまでも彼は馬鹿のままでいるんです。この人、あなたに軽蔑されていることにも気付いてないんですよ!」 僕は、自信に満ちて誇り高い基臣さんしか知らない。だからこそ、相手に言いたいことを言わせて黙っている基臣さんなんて見ていられなかった。 ああ、でも、僕は、自分の腹立ちに我を忘れて、全てを台無しにしてしまったのかもしれない。強く優しい夫に守られ愛されて、その幸福の中で柔らかく微笑み、夫を見詰め返す従順でしとやかな妻――という、僕の描いていた高生加早雪のイメージを、僕は自分でぶち壊してしまった――んだ。 「なんてあばずれだ! たとえ折橋建設の社長令嬢でも、こんな女、こっちから願いさげだ!」 そのセリフが、基臣さんの口から出たんでなかったことだけが、ただ一つの救いだった。衆目の中、さんざん僕に馬鹿呼ばわりされて立つ瀬を失ったらしい沢渡博は、今度は僕を侮辱してきた。 「ふん。この泥棒猫に何を吹き込まれたかは知らないが、あんたが折橋建設の社長令嬢だからこそ、基臣もあんたに色目を使っているんだよ!」 残念でした。基臣さんが僕に色目を使ってくれたことなんて、これまで一度もありません。 「馬鹿はやっぱり馬鹿なんだね。他人を自分と同じレベルにまで引きずり落として物事を考えるのはやめた方がいいですよ。沢渡運輸の御曹司さん」 無理に気を張ってそう言い返すのが、僕には精一杯だった。 返す言葉が思いつかなかったらしい沢渡博が、どかどかと乱暴な足取りでラウンジを出ていく。途端に僕はぽろっと涙を零した。 「折橋…早雪さん…?」 基臣さんが僕の名を呼ぶ。ちゃんと下の名前まで憶えていてくれたんだ。だけど、もう――。 僕の前に立ち、僕を見おろしているだろう基臣さんの顔を見あげる勇気は、僕にはなかった。顔を伏せたまま、ぴょこりと頭をさげる。 「ご…ごめんなさい。ぼ…私がもっと綺麗で、目の醒めるような美人だったら、基臣さん、あんなこと言われずに済んだのに…。お…親の地位しか人に誇れるもののない娘が偉そうなこと言いました。すみません」 こんなはずじゃなかったんだ。先日の失礼をお詫びした後で、容姿が今いちな分、従順でしとやかなとこをさりげなくアピールして基臣さんの気を引こうと、夕べ必死に計画を練ってきたのに、それを沢渡博が――ううん、やっぱり僕が自分で――滅茶苦茶にしてしまった。 「ずいぶん勇ましい人だと感心していたのに、涙もろいんですね」 基臣さんはそう言って、僕のために椅子を引いてくれた。 勧められるままテーブルについた僕は、瞬の時の癖で、つい自分の手で涙を拭いそうになり、慌ててバッグからハンカチを取り出した。 騒ぎが一段落したことを見てとったラウンジの客たちが、僕たちに向けていた視線を自分の連れの上に戻した頃、基臣さんはやっと口を開いた。 「もしかして、私に会うためにここにいらしてくださったんですか」 「わ…私、先日のお詫びをしようと思って、それで……」 顔を伏せたまま答えた僕の耳に、基臣さんの嘆息が届けられた。 「どうして私なんかを庇う気になったんです。私が沢渡家でどういう立場の人間なのかは、どなたかからお聞きになったんでしょう?」 『私なんか』という言い方に引っかかるものを感じて、僕は顔をあげ、基臣さんを見た。 皮肉とか自嘲の色を、彼から感じとることはできなかった。もしかしたら本当に基臣さんは、自分のことを『私なんか』と思っているのだろうか。それほどに"庶子"とか"私生児"という立場は、これまでの彼を虐げ、傷付けてきたんだろうか。基臣さんをして、自己卑下させるほどに――? 僕は、唇を噛みしめた。 「す…すみませんっ。考えなしなことを言いました。わ…私、基臣さんの出自なんて、自分にとってはどうでもいいことだから、基臣さんも気にしてないんだって勝手に思いこんで、だから――」 これじゃ、沢渡博なんかより僕の方が、よっぽど思いやりのない世間知らずの馬鹿娘だ。 いたたまれなくなって、僕は席を立った。 弾みで籐椅子がガタンと倒れる。 もう、ほんとに滅茶苦茶だ。弓崎瞬はこんなにドジじゃなかったのに! 「す…すみませんっ。ごめんなさいっ」 僕はひたすらぺこぺこと基臣さんに頭をさげ、そのままラウンジを飛びだした。ロビーを駆けぬけ、ホテルを出て、日比谷公園の真ん中まで来てから、ぼくはやっと走るのをやめた。 そして、茫然とした。 何もかも終わったと思った。 こんなドジで、独りよがりで、でしゃばりな娘が、基臣さんの妻になんかなれるはずがない。少なくとも、楡の木陰で氷河を抱き、幸福そうに微笑んでいた氷河のお母さんのイメージからはかけ離れている。 きっと僕は――弓崎瞬の記憶を持った僕が折橋早雪の中に入りこんでしまったせいで、運命の歯車をぶち壊してしまったんだ。本来の折橋早雪なら、あそこで優しく基臣さんを慰め、励ましてやっていたところだったに違いない。それなのに――それなのに僕は、妾腹の子供としてこれまで基臣さんが過ごしてきた長い時間を思いやってあげることさえできなかった――。 自己嫌悪で、僕はいっぱいだった。 そして、僕が壊してしまった運命は、これからどういう方向に動いていくのかと不安になった。 折橋早雪の代わりに、基臣さんの傷心をいたわり、慰め、彼を理解してやることのできる女性は、この空の下のどこかにいるのだろうか。もしそんな女性が、もしいなかったら、基臣さんの孤独は一生消えることがないんだろうか。 考えただけで、背筋が冷たく凍りついた。 |