それからのことは、あんまり幸せすぎて、僕はよく憶えていない。基臣さんに嫌われたと思い込んで泣き暮らしていた半年間は、むしろ僕に都合よく作用してくれた。

 僕は、両親の許しを得て、基臣さんの許に嫁ぎ、彼の妻になった。

 折橋早雪――ううん、高生加早雪として、初めて基臣さんに抱かれた夜。あの夜のことをどう表現すればいいのかもわからない。

 懐かしい基臣さんの腕や肩や指の感触と熱っぽさ。それにもまして、彼に貫かれた時の高揚感。
 それは、弓崎瞬には到底感じえなかった昂りだった。もしかしたら今、氷河が僕の中にその命を送りこまれているのかもしれないという陶酔を伴う絶頂感なんだ。
 基臣さんは何もかもがたくましくて、高生加早雪は弓崎瞬より一まわり小柄だったけど、早雪の女性の身体は、恐れもなく基臣さんを受け入れ、そして、日を追うごとに、夜を重ねるごとに熟していった。

(氷河が――氷河が僕の中に――)
 子宮にまで達しているような基臣さんの熱いものを締めつけながら、白濁する意識の中、僕は、脳裏の更に奥の一点で、いつもそう叫び続けていたように思う。

 少し、倒錯的だったかもしれない。優しさと激しさの入り混じった基臣さんの愛撫に、僕は酔いしれていた。
 そして――そんな夜を重ねて重ねて、僕はある夜、本当に、氷河の命を僕の身体の中に受けとめたんだ。

 その頃基臣さんは、彼の入った会社の理事の一人にまでなっていて、僕はよく両親に、『おまえの人を見る目は確かだった』と、しみじみ言われるようになっていた。オイルショックやそれに伴う狂乱物価の波を乗り切れずに没落していった沢渡運輸と比較する気持ちも、両親の中にはあっただろう。父には、基臣さんに折橋建設を譲りたいと考えている節もあった。
 けど、僕は、そんなことより、基臣さんが、『君がいてくれるから、頑張れるんだ』と言ってキスしてくれることの方がずっと嬉しかったし、誇らしかった。

 高生加早雪は、実際、ずいぶん綺麗になっていた。以前、弓崎瞬に抱いていた劣等感も、嘘のように消え失せていた。基臣さんの愛を受けとめるたび、身体の内側から美しくなっているような気がして、そんなことを日中に考えている自分に気付き、頬を赤らめたりすることもあった。

 そんな幸福な日々の中で、僕は自分の中に氷河がいることを知ったんだ。
 僕は、氷河を得て、もっともっと幸福になれる――僕は嬉しさに気が狂いそうだった。今だって幸福すぎるくらいなのに、これ以上の幸福が、あと一年もしないうちに僕のものになるんだ。
 本当に、すぐには信じられないくらい嬉しかった。

 その夜、帰宅した基臣さんに子供ができたことを告げると、基臣さんは、けど、なぜか暗い表情になった。

「基臣さん。あの…子供…ほしくなかったんですか?」
 それまで有頂天だった僕は、急に不安になって彼に尋ねた。

 もちろん、基臣さんは僕の身体を気遣ってくれてるから、堕ろせなんて言うはずがないのはわかってたけど、もし氷河がその父親に望まれずに生まれてくるようなことがあったら、僕はどうしていいかわからない。弓崎瞬の知っている氷河の父が、そういえば、かなりの放任主義だったことを、僕は遅まきながら思いだした。あれは、もしかしたら、望まない子供と距離をおくためのものだったのだろうか?
 不安に顔を曇らせた僕に、基臣さんは小さく微笑いかけてきた。

「…ほしくないわけじゃない。ただ――」
「ただ?」
「私自身が父親のいない家庭で育ったから、よくわからないんだよ。父親というものが、その…子供に対して何をしてやればいいのか」
「基臣さん…」
 そう言って、さりげなく僕の上から視線を逸らした基臣さんに、僕は胸が締めつけられるような気持ちになった。

 彼はもう、高生加家の私生児でもなければ、沢渡家の庶子でもない。自身の家と家族を持ち、社会的、経済的に恵まれ、多くの部下を持つ成功者なのに、それでもまだ、彼の心の中には癒されない部分があるっていうんだろうか。
 だとしたら――だとしたら、その傷を癒してやるのが僕の務めだ。心も身体も弱々しい人間だった弓崎瞬を、基臣さんが包みこんでくれたように。

「父親になること不安がるなんて、基臣さんらしくありません。私だって、母親になるのなんて初めてなんですから、きっといろんな失敗すると思います。でも、ほら、子供って、いいことしたら褒めてあげて、いけないことしたら叱ってあげて、可愛かったら抱きしめてあげればいいのよ!」
 意識して明るく応じた僕を、基臣さんはまじまじと見おろした。
「しかし、もし、私に似て可愛げのない子供だったら――」
「きっと一日中抱きしめて離さない」

 それは本音だった。自分は、本当にそんな母親になってしまうかもしれないと、僕は思っていた。
「基臣さんの子供なんだから、きっとすごくカッコよくて強くて優しくて頭のいい子が産まれるに決まってるんです。心配いりません」
「カッコいい赤ん坊というのは、想像もつかないが」
「でも、基臣さんに似るんですから」
「――」

 確信に満ちて断言する僕に、基臣さんはやっと翳りのない微笑を見せてくれた。
「君は私をおだてるのがうまい」

 そして、基臣さんは、
「身体を大事にしてくれ」
と僕をいたわってくれた。

 僕は、彼の笑みとその言葉にほっと安堵したのである。

 喜んでいるのは、僕だけではなかった。折橋早雪の両親は初孫の知らせに大喜びで、まだ産まれてもいない初孫のために、ベビーベッドやら衣類やら玩具やらを山のように届けてくれた。置き場所に困ると訴えると、事もなげに広い家に引っ越せと言い始める。

「基臣くんは、折橋の援助を悉く拒むが、これは基臣くんのためではなく、初孫への祖父母のプレゼントだ。土地は早雪に生前贈与し、建築施工はうちの会社で請け負う」
「そうそう。新婚のうちは狭い家の方が何かと楽しいでしょうけどね、子供ができたら広い家の方がいいわ。今の基臣さんの立場で、あの家はちょっと不釣り合いですよ。基臣さんも早雪も、私たちのこと少しも頼ってくれなくて、私たち、つまらないわ」
と、半分命令され、半分泣きつかれる形で、僕たちは引っ越しを余儀なくされた。

 すったもんだした挙げ句、土地は折橋家から購入し、家屋の建築費も基臣さんの方で出すということで折り合いをつけたのだが、ともかく、氷河が生まれてしばらく経った頃、僕と基臣さんは、あの懐かしい洋館に引っ越したんだ。






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