子供は流産した。

 会社から急いで駆けつけてくれた基臣さんは、子供が流れてしまったことを知らされて驚いたことだろう。僕はまだ、そのことを基臣さんに告げていなかったから。なぜだか、基臣さんに告げてはいけないような気がして、僕は黙っていたんだ。氷河を産んでからの僕はあまり丈夫とは言い難かったし、基臣さんに心配をかけるのも嫌だった。

「…ごめんなさい」
 病院のベッドの上から基臣さんに謝ると、基臣さんは辛そうな微笑を見せた。

 その微笑を見て、僕は知った。
 この人は、僕の命がまもなく消えることを知っているんだと。
 身体がひどくだるかった。腹部が痛む。多分出血が止まっていないんだろう。

「基臣さん、ごめんなさい…。私、きっともう駄目です。ほんとは、基臣さんと氷河に、もう一人家族をあげたかったんだけど……」
 そう告げた僕の声は、自分でもどきりとするほど頼りないものだった。

「駄目なんてことはない。知っているだろう、私は君がいないと何もできない」
 基臣さんは力付けるように僕の手を握りしめてくれたが、僕は横に首を振った――つもりだった。

 声を出すことがこんなに体力を使うものだとは、これまで一度も思ったことはない。肺がきりきりと痛んで、僕は顔を歪めた。でも、どんなに辛くても、これだけは言っておかなきゃならない。
「私、幸せでした。本当に、誰よりも幸せだったと、自信を持って言えます。でも、もっと幸せになりたいから――お願いです。基臣さん、私が死んだら、なるべく早く新しい奥様を迎えてください。氷河に、母親のないことで寂しい思いをさせないでください。私のこと、思い続ける必要なんてありません。そんなことされても、私はちっとも嬉しくない。氷河と基臣さんがなるべく早く私のこと忘れて、新しい家庭で新しい幸福を掴むことが、私の――」
 息が続かなくなった僕に、医者が酸素吸入器をつけようとする。僕は左右に首を振って、それを拒んだ。
 僕の手を握る基臣さんの手に力がこもる。

「それは無理だ、早雪」
 ためらいのない基臣さんの返事に、僕の目から涙が伝い落ちた。

「ママぁ」
 心細そうな氷河の声に引かれるように、僕の指先が震える。基臣さんは、その手を氷河の頬に運んでくれた。

 それから僕は、長い昏睡状態に陥った。痛みで時々意識が戻り、うすく目を開けるといつもそこに、基臣さんと氷河の哀しげな眼差しがあった。
 その眼差しが、僕の胸を刺す。

 幸せっていったい何だろう。

 高生加早雪は、確かに世界でいちばん幸福な人間だったけど、その死はこんなに哀しい。氷河と基臣さんを残していくことが、こんなにも辛い。

 弓崎瞬は――弓崎瞬の人生は後悔ばかりだった。残される人ではなく、自分を哀しいと思って死んでいった。
 でも、人生をやり直してみたところで、結局、哀しみのない人生なんてありえないんだ。高生加早雪の死は、幸せになってほしい人たちを哀しい人に変えてしまう。僕の望むことは氷河と基臣さんの幸福だけなのに、それなのに、僕の望みは叶わないんだ……。

 苦痛と哀切の中で、僕はふと考えた。
 今、弓崎瞬はどうしているだろう。あの小さな瞬は、僕がそうだったように、やがて氷河に出会い、基臣さんに出会い、そして、高生加早雪になりたいと願って死んでいくのだろうか。
 この時の輪は永遠に閉じられたまま、僕は二つの哀しい人生を永遠に繰り返すことになるんだろうか。誰も――誰ひとり、幸福にできないままで――。

 哀しみが僕の胸を貫く。
 もし僕が――弓崎瞬が、氷河に自分の気持ちを伝えていたら、この哀しみはなかっただろうか。

 苦しい息の下で、僕がそう考え始めた時、高生加早雪の人生は静かに終わった。






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