「噂、か。噂、ね」
しかし、である。
自分の中にある悪を認めようとしない主人公が、悪そのもの無価値そのものであろうとする情熱的な厭世家に勝てるわけがない。
アスランの言葉を、クルーゼは唇の端を僅かに歪めて、楽しそうに復唱した。

「そういえば、私も、君に関する奇妙な噂を聞いたばかりなのだが」
「俺の……噂?」
アスランが、怪訝そうに眉をひそめる。

アスランの反応を無視したクルーゼは、例の声と例の口調で、彼が聞いたという噂の内容をアスランに告げた。
「ニコルのピアノ演奏会の時に、君が客席で大口を開けて寝ていたという噂だ。しかも、牛のように大量のヨダレを垂らしながら」

「だっ……誰が、そんなデマを……!」
アスランが、初めて顔色を変える。
そんなアスランをなだめるように、クルーゼは言葉を続けた。
「噂というものはそういうものだよ、アスラン。鵜呑みにするのは愚か者の所業だ。もっとも、火のないところに煙は立たないとも言うけれどね」

クルーゼが、その言葉の端にわざと疑念を残してみせていることに、おそらくアスランは気付いてもいなかったろう。
彼は、自分の受けた衝撃にのみ気をとられていて、クルーゼの言葉に含まれている悪意を感じ取る余裕もなかった。

「ヨダレ……この俺がヨダレ……。確かにうたた寝はしてたけど、俺はそんな、牛みたいにヨダレを垂らしてなんか……」
「気にすることはない。その話が根も葉もない無責任な噂だったとしても、あるいは事実だったとしても、人の口に戸は立てられないものだ。いちいちそれは誤解だと説明してまわることもできないのだし、結局は、どんな噂を立てられようと、泰然としているのがいちばんいいのだよ、アスラン」

分別顔で──もとい、分別口調で──アスランを慰めてから、クルーゼは彼の四次元ポケットから、フィルターつき花粉症対策マスクを取り出した。
わざとらしく周囲に人影がないことを確認してから、それをアスランの手に握らせる。
「ヨダレが止まらない時には、これを使うといい」
「俺はヨダレなんか……! …………」

エリートは、ダメージに弱い。
アスランが自分自身をエリートと自認していたかどうかはともかくも、彼がクルーゼに比べれば、おめでたいほどに温室育ちのエリートであることは事実である。
変態と噂されることに比べれば、ヨダレの噂のひとつやふたつ、全く大したことではないのだが、それはあくまでも第三者の客観的かつ冷静な判断であり、噂される当人には、それは相当に大きな衝撃だった。

「ヨダレ……この俺がヨダレ……」
アスランがふいにその場にしゃがみ込む。
そうして、彼は、通路の壁に向かい、ぶつぶつと暗い独り言を呟き始めたのだった。






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