「行ってらっしゃい」

クルーゼのために在るという“それ”は、クルーゼ以外の人間の目に触れるつもりはないらしい。
クルーゼが彼の住まいを出るのを、ニコルは、まるで息子を戦場に送り出す母親のような瞳をして見送った。

また誰かを裏切り、裏切ることに傷付いて帰ってくれば、“あれ”は今夜も自分を抱きしめてくれるのだろうか──?
その日、クルーゼは、彼の行くべき場所に行き、彼の為すべきことを為しながら、空白の時間ができるたびに、そればかりを考えていたのである。

真の目的と己れの心とを仮面の下に隠し、我儘で貪欲な人間たちの前で装う、偽りの言葉、偽りの笑み、偽りの優しさと偽りの正義。
偽りの自分を演じている間、クルーゼはずっと不安だった。
自分が、あの家──待つ人がいるなら、そこは“家”だろう──を離れている間に、ニコルが消えてしまうのではないかと。






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