「ナキアさん! もしかしたらと思ったらやっぱり!」 取り残された気分で部屋に戻りぼんやりしていたナキアを我に返らせたのは、息せき切ったイナの声だった。神域に吸い込まれていくナディンたちを見送っていた時ふいに襲われた、自分でも理解できない不可思議な寂しさ。人混みの中にいると、その寂しさが募るばかりのような気がして、ナキアは部屋に閉じこもっていたのだった。 「こんなとこにいちゃ駄目よ。もうすぐ招喚式が始まるわ。早く広場に行きましょ。少しでも近くでシュメールの歌を聞かなくっちゃ!」 イナに手を引っ張られ廊下に出ると、そこは先程までの騒がしさはどこへやら、冷たい墓室のようにしんと静まりかえっていた。神殿内の人々は既にシュメールの歌を聞くために広場に降りてしまっているようだった。 「さ! 速く、速くっ!」 エリドゥの市街地に面した中央の大階段は儀式に使うために通行禁止になっていたので、ナキアとイナは西側の少し幅の狭い階段を駆け降りて、ジッグラトを見上げる広場へと急いだのである。 そこは、神殿内の人混みなどものの数ではないほどの大混雑だった。ナキアはあっという間にイナとはぐれ、人の波の一部になってしまったのである。誰が候補者で誰が見物人なのかの区別ができている者など、この場には一人もいないに違いないと、押し合いへし合いする多くの人間の波間でもまれながら、ナキアは思った。 何かを渇望している民衆の凄まじいまでの熱気――を、ナキアは肌で感じとっていた。 右からも左からも人に押され、ナキアはいつのまにか広場の中央付近に運ばれていたらしい。人の波の間からジッグラトの方を見あげると、市街地に向いた中央の大階段がちょうどナキアの正面前方にあった。 大階段を上がりきった場所にある平地、神殿の中央入口の前の祭儀場に、数人の神官の赤い衣が並んでいるのが見える。そろそろ儀式が始まるのかと思った時、濃紺の長衣を着けた青年が、大階段の上に姿を現した。 ナキアのいるところからは遠すぎて、彼が身につけている黄金が陽光を受けて反射する光しか見てとれない。 だが、ナキアにはすぐわかった。 それが、優しい紺青の瞳をしたバーニ――エリドゥの都の王、我等が国土【キ・エン・ギ】に存在するすべての都市の王を統べる王、エリドゥの守護神エンキに選ばれたただ一人の王なのだということが。 王の光来に気づいた群衆の歓声がひときわ大きくなる。王の左右に五人のシュメールが進み出て六人の姿が揃うと、群衆の歓声は耳では聞きとれないほど激しいものに変化した。 その大歓声の中、シュメールが一人ずつ大階段を降り始める。彼等が階段の下方に行くと、ナキアの目では彼等の姿を捉えることはできなくなった。ナキアの周囲にいるのは彼女と同じくらいの背丈の少年がほとんどだったのだが、彼等は少しでもシュメールの姿を目に映そうとして必死で爪先立ち、中には隣にいる者の肩によじ登ろうとする者さえいて、ナキアの視界を塞いでしまったのである。 もっとも彼等全員が整然と直立不動の姿勢を保ってくれていたところで、ナキアのいる位置からは距離がありすぎて、大階段の下の動向を確かめることは不可能だったろう。 だから、ナキアは、遠く高いところにあるバーニの姿をずっと見詰めていた。 飢えて死にそうだった自分に救いの手を差しのべてくれた人。その優しい眼差しで、自分に故郷の村を捨て去る決意をさせた人。もう二度と間近に見ることも言葉を交わすこともできない、神に選ばれた遠い人――。 遙か高みにあるバーニの姿が霞み始め、ナキアは右の手で涙を拭った。見詰めているのが辛いのに、視線を逸らすこともできない。王というものは、神に選ばれた人間というものは、皆、こういう執着心を人の心に植えつけるものなのだろうか。ナディンがしっかり務めを果たせるのかと、姉や母親のような気持ちで心配してしまうのも、彼が神に選ばれた存在だからなのだろうか。 生まれ育った故郷の村では経験したことのない様々な感情に押し潰されそうになって、ナキアは途方に暮れていた。 やがて五人のシュメールの姿が再び群衆の視界に入ってくる。彼等は、広場を囲む五つの台座の上に出現した。王と五人のシュメールと一つだけ空の台座が、大きな七角形を形作って、熱気と興奮に包まれた群衆を取り囲んでいる。 シュメールの周囲にはそれぞれ五・六人の護衛がついて身辺を守っていたが、シュメールに触れようとする群衆が、今にもナディンを台座から引きずりおろしてしまうのではないかと、ナキアははらはらした。 その時、である。 それは唐突に始まった。 特に合図をした様子もなかったのに、五人のシュメールが全く同時に歌を――歌を歌いだしたのである。 晴れた日の草原の上をすべる風のような声だった。曲に言葉は乗っていない。 風の音、河の音、月の光の音、雲の音、花の音――。何かに比するのも不可能な、何かに例える言葉すら考え及ばないような美しい響きが、ナキアの耳に飛びこんでくる。それは奇跡のように美しい旋律ではあった。 だが、彼等の唇が奏でる旋律とは別にもう一つ、ナキアの頭、ナキアの心、ナキアの魂に直接響いてくる何かが、五人のシュメールからは発せられていたのである。 それは、意思や思考する力さえ奪いとられるような圧倒的な衝撃だった。ナキアの体は金縛りにあったかのように動かなくなった。これが初めてエリドゥで迎えた朝に洩れ聞いたあの音と同じものだというのなら、それは離れた場所から洩れてくる微かな音の残骸だったからこそ、ただ美しいものと感じることしかできなかったのだとしか言いようがない。 ナキアは目だけを動かして周囲の人々を見やり、再び愕然とした。 つい先程まで気が狂ったような歓声をあげていた群衆は、今はしわぶき一つたてずに鎮まりかえっている。その表情は、神の国に迷いこんだ人間のそれのように陶然としていた。全身が緊張に震えているナキアとは反対に、彼等はその体を緩やかに歌にたゆたわせ、これ以上ないほどに安らいだ眼差しで宙を見詰めている。彼等は不安も怒りも悲しみも欲望も憎しみもない至福の時を過ごしているようだった。 (なんで? こんなすごい力を誰も感じてないの? 確かに綺麗な声で、綺麗な響きで、でも…でも、空気が急に重たくなったくらい凄い力なのに…!) だが、その力の影響を受けているのは、その場にナキア一人だけのようだった。ナキア以外の人間に対しては、五人の歌は安らぎと陶酔感をもたらすものでしかないらしい 五人の歌が終わっても、その余韻に浸るように言葉もない民衆の上に、バーニのよく透る声が響く。 「我等が国土の民、よく来てくれた。今日、第二【アヤル】の月の月例祭は、皆も知っての通り、大地母神ニンフルサグの座のシュメールを招く招喚式となった。生命の母ニンフルサグ女神に選ばれた者は既にこの場に立っているだろう。我等の傍らにいるはず、そして、我等が国土のシュメールたちの、仲間を呼ぶ歌を聞いたはずだ」 バーニの声は静まりかえった広場の隅々にまで朗々と響いた。煽動的なところがなく、穏やかで抑揚も少ない。それが五人のシュメールの歌の余韻に重なって、王の威厳を効果的に演出していた。 「皆も新たなシュメールの姿を一刻も早く見いだしたいであろうから、早速課題の曲を!」 バーニが右の腕を高く天にかざし、そして、下ろす。それが合図だったらしく、王の後ろにずらりと控えていた赤衣の神官の一人が前に進み出て、手にしていた粘土板を掲げ、民衆に向かって声を張りあげた。 「第百二十代大地母神ニンフルサグの座のシュメール招喚の曲は、喜の聖歌第七番、"豊穣の地平"。これよりシュメールがそれぞれの音域で課題の曲を歌われる。皆は音の長短と相対的な音の高低を覚えるように!」 神官の説明が終わるや否や、ナディンの声が空に響く。透き通るように高い声だった。広場に集まったすべての人々の脳裏に、緑なす大地、豊かに実る果樹、金色に輝く麦畑の情景が描かれたに違いなかった。 続いてアルディが同じ旋律を辿る。アルディの声は飾り気のない子供のそれで、金色の大地を駆けまわる子供たちの喜びを歌っているようだった。 そしてナイドの歌。ここから歌の音域は成人した男性の力強く深みのあるものに変わり、それはイルラ、ウスルと順を追って低くなっていった。大地の持つ力を、その偉大さと恵みを、民衆は実感しただろう。 それはナキアにもわかった。だが、ナキアにはもう一つ、耳を通さず直接脳を訪れる別の声が聞こえていたのである。 ハヤク キテ ココニ キテ ヒトリハ イヤデショウ ワレワレハ ココニイル ミエテ イルンデショウ キコエテ イルハズダ ウタッテ ウタッテ ウタエ ウタエ…! 「では、候補者たち、歌を。音域は自分が最も楽に出せる音域で構わない」 神官の声も、広場に満ちた候補者たちの歌も、ナキアにはほとんど聞こえていなかった。 ウタッテ ボクタチト ハナレテ ヒトリデ イルノハ ツライデショウ 歌でも音でもない言葉の残響が、ナキアの頭の中で渦巻いていた。 ナキアが自失している間に、五人のシュメールの耳打ちを受けた護衛たちが階段上の神官の許に走り、彼等の報告を受けた神官は、広場の群衆に向かって再び声を張りあげた。 「歌っていない者がいる! 見物の者も皆声を出せ。子供も老人もだ。この場にいて歌を歌わぬ者は、神のご意思に背く者。我等が国土の平和と豊穣を願うなら、皆歌え。どんなに小さな声でもシュメールは聞きわけられるだろう!」 神官の命を受けて、広場を満たす歌声は一段と大きくなった。それはほとんど嵐神アダドの起こす暴風の音に近い。群衆の熱狂の持つ力の凄まじさに揉みくちゃにされ、ナキアまでもが歌を歌わずにはいられなくなった。 もちろんナキアはそれまで歌詞のない歌など歌ったことがなかった。だが、それでも、どんなに声を張りあげても自分の声を聞きとることさえできないとわかっているのに、それでも、ナキアは歌わずにはいられなかったのだ。 台座の五人が微かに頷く。彼等の横にいた護衛の一人が彼等に白い布で目隠しをし、そして彼等は台座から広場に続く階段を一歩一歩歩みだした。 階段上の広場では、神官が、 「続けて! 続けて!」 と狂気のように叫んでいる。 五人のシュメールは群衆の中に分け入ってきた。人々は彼等に道をあけ、彼等に脇を通り抜けられた者たちが無念そうに歌うのをやめる。広場を覆いつくしていた歌は、その周辺から中心に向かって、水が大地に吸い込まれるように少しずつ消えていった。 シュメールたちは、視界を塞がれているというのに躓く様子もなく、広場の中心へと歩を進めていく。 千に、百に、十に、歌の数はますます少なくなり、そして――。 そして、最後の一つはナキアのものだった。 ナキアの周囲を五人のシュメールが取り囲む。彼等の脇にぴったりと付き添っていた護衛たちが彼等の目隠しを取り除き、やっと五人のシュメールは新しい仲間と出会ったのである。 「ナキアさん…」 ナディンの小さな呟きがナキアの歌を遮った。 イルラもウスルもアルディも驚きに目を見張っている。ナイドだけが、つまらなそうに横を向いていた。 「気づいていたな、ナイド」 「あんまり推察通りなんでしらける」 ウスルの非難に、ナイドは小声でぼやいた。 「ナキアさんでよかった」 ナディンが嬉しそうにナキアの左手を握りしめ、その手をイルラの右の手に渡す。ウスルがナキアの右側にまわり、ナキアのもう一方の手をとった。 途端に怒号のような歓声が、六人になったシュメールの周囲を埋めつくす。 「我等が国土の王、万歳!」 「女神ニンフルサグに栄光あれ!」 「新たなる我等がシュメール!!」 王とニンフルサグ女神を讃える声、祖国の平和を喜ぶ声、新しいシュメールの出現を寿【ことほ】ぐ声。人々が口にする言葉はそれぞれだったが、そのすべてが歓喜に満ちていることに変わりはない。 「あ…あの…イルラ…?」 考えてもいなかった展開に戸惑うナキアの手を、イルラとウスルが強く握り返す。 「質問はあとだ。王の御前に行く」 「え…バーニの…?」 新しいシュメールを王の許に導くため、人々は左右に割れて神殿に続く道を作っていた。イルラとウスルに手をとられ、その後ろをナイド、ナディン、アルディに守られて、ナキアはその道を進んだのである。 足が、地についていないような気がした。 驚きと困惑と、そして、ついに故郷を見つけたような気持ち。 二百段以上はある階段を登りきった場所で、ナキアは、そうして、再びバーニの前に立ったのである。 「大地母神ニンフルサグの座の主を、王にご紹介申しあげます」 イルラの告げる言葉を、ナキアは夢見心地で聞いていた。 「間違いはないのか」 「はい」 小声でバーニとイルラが短いやりとりを交わす。イルラの返事に頷くと、バーニは、初めて会った時と同じ際限なく優しい眼差しをナキアの上に注いだ。 「そうか…。では、私のしたことは運命の神の命じたことだったのだな」 感に堪えないといった口調で一人言のようにそう呟き、バーニはナキアの手をイルラから受けとった。そして、彼は、広場を埋めつくした民衆に向かって、高らかに、誇らかに宣言したのである。 「エリドゥの王にして我等が国土の王、諸王の王エン・エンキ・バーニは、我等が国土の民と共に、第百二十代ニンフルサグのシュメールの座に、ニンフルサグ・ナキアを受け入れる。我等が国土に更なる豊穣と平和を!」 王の力強い宣言に、嵐のような歓声が覆い被さった。 |