「ナディンは知ってたの? シュメールは一人ではいられないってこと」
 ウスルの講義の後、ナキアがナディンに尋ねると、彼は、
「ええ。嬉しいですよね。いつも自分を見守ってくれてる人がいるって」
と、相変わらずのにこにこ顔。
「あ、そっか。そういう考え方もあるのか…」
 感心したように呟くナキアに、ナディンは少し困ったような顔で小さく吐息した。
「ナキアさん。あの、そういうこともとても大事なことですけど、聖歌の方もそろそろ…」
 ナキアがナディンについて聖歌の練習を始めてから既に五日が経っていた。が、ナキアはまだ一曲の聖歌も修得できていなかった。王のこと、シュメールのこと、国のこと――歌よりも知りたいことが多すぎて、ナキアはナディンが優しいのに甘え、ずっと話を逸らしてばかりいたのである。聖歌は五百曲近くあり、それらはシュメールからシュメールへと口伝で数千年歌い継がれてきたらしい。五百という数を聞いた時点で、ナキアはあまりに遠い道のりに、出発点で足踏み状態になってしまっていたのだ。
「ナキアさんが覚えてくださらないと――ナイドが監督に来るって言ってるんです。僕の教え方がよくないんじゃないかって、心配してるの…」
 ナディンの嘆きもわかるし、その期待に応えたいとも思うのだが、ナキアは今一つ聖歌の修得に乗り気になれずにいた。『歌自体は聞くに堪えないものでも、シュメールの力は損なわれるものではない』と聞いてしまったせいもあったかもしれない。
「でも、聖歌って歌詞がないじゃない。どれもとっても綺麗な旋律だけど、同じ曲でも、歌ってくれるナディンのその時その時の思念で違う曲に聞こえるし、覚えにくいの。私、これまで歌なんてあんまり歌ったことないけど、私の知ってる歌って、みんな歌詞がついてたのよ。村の人たちが歌う歌も、よその国の船乗りの歌う歌も、母さんがいつも歌ってた歌も」
「歌詞?」
 ナディンはむしろ、歌詞のついている曲の方を知らなかったらしい。ナキアの言う"歌詞のついた歌"というものに興味を覚えたらしく、彼は「歌って聞かせて」とナキアにせがみ始めた。ナディンの先生振りを見物にきていたアルディまでもがぱちぱちと手を叩きだし、結局その日の午後の聖歌修得の時間はすっかり歌詞のある歌の発表会になってしまったのである。うろ覚えだった村の収穫祭の歌や子守歌、そして、恋の歌――。
 ナキアの母が歌っていた恋の歌が、特にナディンの気に入ったらしかった。
「不思議ですね。これなら、シュメールみたいに人の心を強制的に変える力のない人が歌っても、聞く人を共感させられるんじゃないかしら。ナキアさん、すごい!」
 我等が国土で間違いなく五本の指に入る歌うたいに――いわば歌の権威者に手放しで褒められて、ナキアもそう悪い気はしない。調子に乗ってナキアは歌い続け――そうして、翌日からナキアの聖歌修得にはナイドの見張りがつくことになってしまったのだった。
 ナイド自身は、うっとおしい雑務から逃れられることになって、非常に機嫌がよかったが。
「シュメールには休息日すら与えられないんだから、せめてガキどもをからかって気晴らしする時間くらいは欲しいからな」
と、月神の座のシュメールは言っていたが、ナイドの監督がつくようになってから聖歌習得の時間はほとんど脱線がなくなり、ナキアも少しずつではあったが、聖歌を自分のものにし始めていた。
 修得し始めると、聖歌の良さもわかってくる。歌詞がないからこそ、聖歌は、歌い方によって喜びの歌にも悲しみの歌にも恋の歌にすらなる広汎性を持つということをナキアは知った。
 技術的な実利性もあった。歌詞のない歌の方が、歌詞に捉われず、思いを乗せやすい。一つの曲を、労働の尊さを讃える歌にも故国の美しさを讃える歌にもできるという面白さもある。
 聖歌を一曲ものにするたび、ナディンが喜んでくれるのを見るのも嬉しくて、ナキアの聖歌修得の速さは日を追うごとに加速がついていった。

「朝の宣誓式で独唱できるのももうすぐですね。ナキアさんの努力の成果には、きっと陛下も感心なさると思いますよ」
 ナディンのその一言が、ナキアの熱意を一層あおった。






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