第四章  月神の座のシュメール





 春の夜。暖かい春の夜は、それでなくても人の心を騒がせる。
 ナキアはその夜、なかなか寝就けなかった。
 夕食の後、神域でイルラやウスルに特訓の成果を披露したのだが、その際二人に、
「これなら、そろそろ陛下の前で独唱させても大丈夫だ」
とお墨付きをもらったせいで。
 バーニは、自分が拾ってきたみすぼらしい少女の成長振りを喜んでくれるだろうか。バーニの前で歌を歌う時のことを考えると、ナキアはやたらと心臓がどきどきして、どうにも落ち着けなかったのだ。
 月光浴でもして気持ちを鎮めないと朝までこの調子かもしれないと考え、露台に出てみる。ほぼ真円に近い月に照らされる中庭を見おろしたナキアは、庭の灯の横にある石の長椅子にナディンの姿があるのを見つけて、露台から庭に続く階段をゆっくりと静かに降りていった。こんなに美しい月の光に満ちた夜に騒がしい音は似合わないと思ったせいもあるし、身じろぎもせずにどこかただ一つの場所に見入っている様子のナディンを驚かせたくないと思ったせいもある。
 中庭にはたくさんのナツメ椰子の木が植えられ、あちこちの木陰には石卓や椅子が置かれている。昼の間、そこはシュメールたちの休息場だったが、夜も散策ができるように椰子油を使った灯が点々と灯されていた。
「ナディン、何見てるの?」
 なるべくナディンを驚かせないように小さな声で呼びかけたのだが、仲間の声に弾かれたようにナディンの細い肩がびくっと震えたのが、ナキアには見てとれた。
「あ…ナキアさん…。いえ、ちょっと、月を……月が作る影が面白くて……」
「ふぅーん…?」
 ナディンが見あげていたバーニの居室の方を眺めやると、確かに月の作る椰子の葉の影が、露台の手擦りや窓の凹凸に不可思議な模様を描いている。だが、背の高い椰子の木の影の不思議さよりも、その影の向こうにいるのがバーニだということの方が、ナキアの心を捉え揺さぶった。
「ナキアさんは? どうなさったんです?」
「えっ!?」
 ナディンの問い掛けに今度はナキアの方が驚いて、奇妙なやましさと共に、視線をバーニの部屋の窓からナディンへと戻した。
「あっ…ああ、私、ね。うん、あの、ほら、今日、イルラとウスルに歌を褒めてもらったでしょ。それで浮かれて眠れなくて…」
「ああ、そうですね。ナキアさん、ほんとにあっというまに五十曲近く覚えちゃって…やっぱりナイドに来てもらってよかったみたい」
「そりゃあね。あの綺麗な顔でじろっと睨みつけられてたら、真面目にやるしかなくって……。ナイドって、ちょっと他の人たちと違うわよね。ナディンやイルラたちは、なんか見るからに優しそうなのに、うん、ナイドも優しい人だってことはわかってるんだけど、彼、仏頂面してることが多いじゃない。皮肉言うことも多いし、ナディンにだけは妙に素直だけど…。ナディンって、もしかして、ナイドの弱みでも握ってるの?」
 不自然に口数が多いと、ナキアは自分自身でも思っていた。思っていたのだが、黙っていることは尚更できなかった。
 ナディンが、まさかと言うように首を横に振る。
「弱みなんて…。ただ、僕、ずっと前…僕がシュメールに選ばれる前に、ナイドと約束したんです。僕がナイドのお兄様になってあげるって」
「お兄様…って、ナディンがナイドの? 弟じゃなく?」
 ナディンはナイドより十も歳下のはずである。ナディンがナイドの"お兄様"になるなどという奇抜な発想がいったいどこから湧いてきたのかと、ナキアは目を丸くした。
「ナイドはお父様もお母様もお兄様もいなくて一人ぽっちだって言ったから、だから、僕――」
 ナディンの言葉の語尾が小さくなってしまったのは、十歳も歳上のナイドの兄になってやろうとした、幼い頃の自分をおこがましさに恥じ入ってしまったためなのだろう――とナキアは思った。
「ナイドはね、とっても優しいの。時々厳しいこと言うのは、ナイドがとっても繊細で傷つきやすいから、虚勢を張って自分を守ろうとしているからなの。だから、ナキアさんもナイドには優しくしてあげてね? ちょっときついこと言われても大目に見てあげてね?」
「え…あ、あの…。…うん…わかった…」
(で…でも、ほんとかなぁ。ナイドよりだったら、ナディンの方がずっと繊細で傷つきやすい感じがするけどなぁ)
 戸惑いつつ、だが、ナディンに異議を申し立てることなど思いもよらず、ナキアが愛の女神に選ばれたシュメールに頷き返す。

 ――そんなナキアを気の毒そうに見詰める目があった。
 ナツメ椰子の木立の向こうの石卓で、麦酒を飲んでいたイルラとウスル、である。
 二人は同じ卓について素知らぬ顔をしているナイドを、あきれたように横目で見やった。
「おまえ、よくもまあ、あのナディンをあんなふうに騙くらかして…。繊細で傷つきやすいだと! おまえが!」
 ウスルに咎められると、ナイドはぷいと横を向いた。
「俺のことを真実理解してくれているのはナディンだけだ」
「ふん。そんな作り物の憂いなんか貼りつけた顔に騙される俺じゃないぞ。ナディンもかわいそうに。繊細で傷つきやすい月神の座のシュメールが、実はこんなにしたたかで小狡い男だとも知らず…。おまえ、あの純真なナディンを騙くらかして、良心が痛まないのか」
 ナイドは全く良心に痛みは感じていないようだった。
「ナディンにご注進したらいいだろう」
 唇の端を少し右に寄せ、彼は嘲笑するように同僚を見た。
「…言ってもナディンは信じない」
「そう。言ってもナディンは信じない。わかってるじゃないか、ウスル」
 にっと皮肉げな笑みを浮かべると、手にしていた白い陶器の器を卓の上に置き、ナイドは席を立った。月の光を静かに受けとめている椰子の木の間をぬって、ナディンたちのいる方へと歩きだす。
「ナディン」
 ナイドに名を呼ばれると、ナディンは掛けていた椅子から立ちあがり、月神の座のシュメールの側に駆け寄ってきた。
「ナイド、どうしたの」
 ナディンの声が気遣わしげだったのは、ナイドがその顔に"憂い"を貼りつけていたからだった。
「夢を見た」
「夢? 恐い夢?」
「悲しい夢だったような気がする」
「眠れないの?」
「ああ」
 ナイドが頷くと、ナディンは白い腕をいっぱいに伸ばし、その手の平をナイドの頬に添えた。
「じゃ、ナイドが眠るまで、僕がついててあげる。ナキアさんに教えてもらった子守歌歌ってあげるよ」
 ナイドの胸にも届かない小柄なナディンが、まるで母親のように彼の脇に寄り添う。ナディンはナキアに就寝の挨拶を残すと、そのままナイドを伴って彼の居室に続く石の階段の方に歩きだした。
 ナイドがつい今し方までイルラたちと良い気分で寝酒の杯を重ねていたことなど、ナディンは知る由もない。ナディンは、ナイドの不安を消し去るための言葉を重ねた。
「みんなナイドの仲間だからね。悲しいことや辛いことがあったら、ちゃんとみんなに言うんだよ? 一人で抱え込んじゃ駄目。みんなナイドを助けてくれるからね」
 ナディンの言葉に素直な子供のようにこくりと頷いてみせるナイドの後ろ姿を見送りながら、イルラが嘆息する。
「病気の振りをして、母親を独占したがる子供と同じだな」
「問題は、母親から引き離したら、本当に病気になるってことだ。シュメールは誰でもそういうところがあるもんだが、あそこまで特定の仲間に執着するってのは…な」
 綺麗な二人連れの、見ようによっては美しくも微笑ましい光景にみとれているナキアを視界の端に入れ、ウスルもまた深い溜め息を洩らした。






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