その翌日、である。
 例によって例のごとく六人揃って朝食をとった後、イルラがナディンを呼びとめた。
「ナディン。おまえ、夕べ、窓を閉めずに子守歌を歌ったろう?」
「え? あ、はい…」
「神殿の東側と神域周辺の警備についていた者たちが全員、そのせいで眠りこけてしまったそうだ。夕べは何事もなかったからいいようなものの、今後こんなことのないように」
「あ、ご…ごめんなさい。今度から気をつけます…!」
 ナディンが恐縮しきって項垂れる。それを見たナイドが、じろりとイルラを睨みつけ、ひそりと言った。
「悲しんでばかりではいけないと考えて、太王太后の葬儀をどんちゃん騒ぎにするよりマシだ」
 途端にイルラの頬に血がのぼる。
「ナイド、おまえ、どうして…」
「どうして、十数年も前の、俺がシュメールになる前の貴様のドジを知ってるかって? それだけ語り草になってるってことだな」
「そ…それとこれとは…」
「全く別件だ。イルラがおまえではなくナディンに注意したのは、その方がおまえに堪【こた】えることがわかっているからだ。ナディンを庇いたいのなら、おまえ自身が自重しろ!」
 昔の失態を暴露されて言葉に詰まったイルラを、ウスルが横から助けに入る。それに異議を唱えたのはアルディだった。
「えーっ、それって変なんじゃないかぁ? ナイドのせいでナディンが叱られるなんておかしいじゃん」
「歌っちゃったのは僕だよ! ナイドは悪くないんだよ!」
 叱られていた当の本人が仲裁に入ったのだが、ナイドは折れる気がないらしく、イルラを睨みつけたままである。
 シュメールが仲間内で争うことがあるなどとは思ってもいなかったナキアは、しばらくあっけにとられて五人の仲間を見詰めていた。
 ややあってから、はっと我に返る。
「あのっ! ねえ、みんなっ!」
 突然割って入ってきたナキアの大声に、五人の視線がナキアに向く。ナディンは泣きそうな目をしていた。
「あのねっ! 夕べナイドは悲しい夢見て、眠れなくて、それでナディンに子守歌歌ってもらったんでしょ? つまり、悲しいのを忘れられればいいんだから、今度からそういう時は子守歌じゃなく恋の歌を歌うようにしたらどうかしらっ!?」
 それは咄嗟に口を突いて出た思いつきだった。突拍子のないナキアの仲裁に、他の五人がぽかんとしてナキアを見る。どぎまぎしながら、ナキアは続けた。
「だって、あの…起きてしまったこと責めるよりは、今後のことを考えた方がいいと思って……。眠れない時って誰にでもあるし、ナディンだってナイドのためにしたことなんだし…」
「……」
 五人分の沈黙が、ナキアの肩に重かった。
 かなりの間をおいてから、ウスルが、
「素晴らしい解決策だ」
と、感心したように言う。それは、本心からの言葉のようにも聞こえたし、ナキアの提案を面白がっているだけの言葉にも聞こえた。
 イルラが苦りきって、眉根を寄せる。
「私が言っているのはそういうことじゃなく、窓を開けたまま歌を歌うような不注意は慎むようにと…」
「まあ、いいじゃないか、ウスル。初めてのナキアの提案だ。しかも実に前向きで楽しい意見だ。おまえは石工の息子だけあって、頭が堅くていけない」
「そうそう。いっそ、ナイドだけじゃなく、みんな揃ってるとこで恋の歌を歌ってもらえばいいんだよ。俺やナディンはともかく、こーんな綺麗な男が揃ってて、艶めいた話の一つもないなんて情けねーじゃん。リムシュの次は俺だーっ! くらいの意気込みの一つや二つ見せてほしーよなー」
「全くだ。人生は長くてせいぜい五十年かそこらだぞ。貴様はその中間点をくだらない小言を言って過ごそうとしているんだ。無意味この上ない人生だな」
 ウスルになだめられ、アルディに無責任な放言を投げつけられるだけならまだしも、この騒ぎの元凶であるナイドに小馬鹿にした物言いをされて、イルラは腹に据えかねたらしい。
「あのなぁ、ナイド!」
 石卓に手をつき立ちあがったイルラを見て、ナキアは彼の怒声の倍の音量で声をはりあげた。
「へえーっ、イルラのお父さんって石工さんなんだーっ! あれって大変な仕事なんでしょ。我等が国土【キ・エン・ギ】には石ってほとんどないから、遠くから運んでくるのよねーっ」
「……」
 機先を制されたイルラが、思わず怒声を飲み込む。ナキアの一文字に結ばれた唇と、ナディンの涙に潤んだ瞳を見て、彼は諸手を上げて降参してしまった。
「……そう、私も父について修行していたからね、多少の細工なら今でもできるよ」
 平生の温厚篤実な年長者の顔に戻ると、彼は浮かしかけていた腰をそのまま椅子に戻した。
 ナキアがほっと安堵の息をつく。
「ふぅん、すごいねー。他のみんなは? 他のみんなは、この神殿に来る前って何してたの? 歌を歌う以外の特技なんてあるわけ?」
 とにかく話題を"子守歌"から少しでも遠いところへもっていきたくて、ナキアがそう言った時、ナイドがふいにナディンに声をかけた。
「ナディン。蜂蜜水が飲みたいな」
「え? あ、うん、そうだね、喉かわいたね。みんなの分、持ってくるよ」
 緊迫した空気が消え去った安堵感とナイドの言葉のせいで、ナディン自身も喉の渇きを自覚したらしい。彼は掛けていた椅子から立ちあがると、中庭に張り出した露台から下階に降りる階段の方に駆けだした。
 その姿が見えなくなったのを確認すると、ナイドは今度はナキアの方に向き直った。石卓についた右手に頬を乗せ、彼はどこか皮肉げな笑みを浮かべて言った。
「ウスルは神官の見習い。アルディはウル近くの農家の末っ子、ナディンの両親は――この神殿で働いていた」
「へえ、いろいろなのね。ナイドは?」
 イルラもウスルもアルディも、不自然な無表情を呈していることに、ナキアは気づかなかった。この華やかな美貌の持ち主ならさぞや高貴な生まれなのだろうと、根拠もなく思い込んで、ナキアは彼の顔を覗きこんだ。
 そして、後悔することになったのである。
 ナイドは皮肉な笑みの上に自嘲めいた笑みを重ね、実に楽しそうに告げた。
「男娼だ」
「…え?」
「金を持ってる男や女を楽しませて、その金や宝石をせしめる仕事だよ」
「…!」
 ナキアは一瞬、否、かなりの間、言葉を失った。
 それがどういう仕事なのかは、彼女にもおぼろげに理解できた。ナキアの村にも娼婦はいた。彼女らはいつも他の村人たちより美々しい衣装をまとい富貴な暮らしをしていたが、ある意味では、孤児のナキアよりも村人たちに蔑まれていた。どこぞの都市の王子と言われても素直に納得できてしまえそうな高貴な美貌の主が、人に蔑まれるような仕事に従事していたとは、ナキアにはにわかには信じられなかった。
「これだけの美貌だ。まさに天職だったな」
 不遜な声音で自虐的に言い募るナイドを、ウスルが制する。
「ナイド!」
 ウスルがナイドの名を呼んだのは、しかし、彼の自虐を止めようとしたのではなく、蜂蜜水の入った水差しと器を持ってナディンが戻ってきたのを彼に知らせるためだったらしい。
 途端にナイドは口をつぐみ、イルラが代わりに口を開いた。
「――というわけで、ナキア。明朝の宣誓式では独唱をしてもらうよ」
「え…あ…はい……」
 ナキア以外の四人は、アルディさえも演技派だった。彼等は何事もなかったかのようにナディンから陶器の器を受けとり、いかにも自然に冷たい蜂蜜水に喉を鳴らしてみせた。 ぎくしゃくしていたナキアの素振りがナディンに不審がられなかったのは、ひとえに彼がナキアのぎこちなさを、初めての独唱を言いつかって緊張しているのだと思い込んでくれたせいだった。






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