季節は春になっているらしい。第十一【シャバト】の月の厳しい寒さを乗り越えた後の暖かい陽射しが、露台を通して王の居室に満ちていた。 ナディンの母が息を引きとった時、彼女に聖歌を捧げた二人のシュメールが開かれた扉の向こうに立っている。 二人の間には、ナディンがいた。 暗褐色の髪のシュメールの手を握りしめていたナディンは、初めて連れてこられた神殿王宮の広大さに圧倒されておどおどしているようだった。が、指し示された部屋の中に父の姿を見いだした途端、ぱっと瞳を輝かせる。 「お父様!」 差しのべられた両腕の中に、ナディンはためらいもせずに飛びこんでいった。 「おお、ナディン、元気だな。長いこと会いに行けなくてすまなかった。ずっと一人ぽっちで寂しかったろう? これからはずっとお父様と一緒だ」 王はそう言いながら、母を亡くしてから一年近く他人の手に任せていた息子を抱きあげた。 「一緒? お父様、ずっとお家にいてくださるの?」 小さな白い手を父の頬に当てて、ナディンが尋ねる。王は目を細めながら、左右に首を振った。 「いや、ナディンがここに住むんだよ。ここにはナディンのお兄様もいらっしゃる」 「お兄様ってなあに?」 「お父様と同じで、ナディンを大好きで護ってくれる人のことだ。だから、ナディンも、お父様にするように素直にお兄様の言うことをきいて、お行儀よくしていなくちゃならないんだよ」 そう言いながら、王が歩み寄っていった先には、十六、七歳の王と同じ色の瞳の少年が立っていた。 ほとんど青年になりかけた黒髪の少年は、父に抱かれた十も年下の弟を無表情に見詰めている。否、彼の中には、父への怒りと、母からそのまま引き継いでしまった哀しみと、父の腕の中の少年の愛苦しさへの戸惑いが渦巻いていた。あまりにたくさんの思いに一時に襲われて、彼は初めて見る小さな弟にどういう態度をとればいいのかもわからずにいるようだった。 「さ、ナディン、ご挨拶はできるかな」 「はい!」 兄とは対照的に、ナディンには戸惑いなど全くない。 ナディンの素直な返事を聞いた父王が、抱きあげていたナディンを床に降ろす。 ナディンは自分よりはるかに背の高い兄を見あげて、にっこりと微笑んだ。 「こんにちは。お兄様」 思わず微笑を返してしまいそうになるほど、その様子は可愛らしかった。だが、その愛らしさが、逆に、ナディンの兄の中に残る亡き母の哀しみをくっきりと浮かびあがらせてしまったのである。 「バーニ。ナディンだ。今年、六歳になる」 その言葉に、ナディンが父を振り仰ぐ。 「バーニ? お兄様じゃないの?」 不思議そうに尋ねるナディンの薄茶色の髪を撫でて、王は、大切な秘密を打ち明けるのだというような口調でナディンに告げた。 「お兄様には、"お兄様"の他に、バーニという名前もあるんだよ。お父様にも、アガクというもう一つの名前がある」 「あ、お母様にも…! お母様にもシェルアという名前がありました。僕だけナディンって名前しかないの…」 がっかりした様子で、ナディンが俯く。王はナディンの前に片膝をつき、その顔を覗きこんだ。 「ナディンにももう一つ…いや、二つ、名前が増えるよ。バーニが弟と呼んだら、それはナディンのことだし、この城の者はこれからナディンを王子様と呼ぶ」 「弟……。僕、それなら知ってます。あ、じゃあお兄様ってあんちゃんのことかしら…。お隣りのスフリムが……」 言いかけて、ナディンは急に怖【お】じけたように父の陰に隠れてバーニを窺い見た。 「ナディン? どうしたんだ?」 父王に尋ねられ、ナディンがもじもじしながら小さな声で答える。 「スフリムが言ってたの。あんちゃんは理由もなく弟をぶったりつねったりするって…」 ナディンの返事を聞くと、王は緩やかに相好を崩した。 「はは…。そんな心配は無用だ。ナディンのお兄様はナディンを誰よりも大切にしてくださるさ。抱きしめてキスしてくださるよ」 「本当!?」 ナディンがぱっと破顔する。花がほころぶような笑顔で、ナディンはバーニの側に飛んでいった。 だが―― 「バーニだ。どうやら私は君の兄…らしいな」 バーニの声音は、かろうじて形を保っている日乾しレンガに走った亀裂のようにひび割れ、乾いていた。バーニはそう言うだけで精一杯だったのである。ナディンの望む抱擁も口付けも、彼には与えてやることができなかった。 優しい兄の抱擁を期待して瞳を輝かせている弟を振り切るように、彼はそれきり何も言わず足早に部屋を出ていってしまった。 「お兄様…」 亡くなった母がしてくれたようなキスも抱擁もなしに、ナディンに背を向けてしまった兄――。彼がつい今し方までいた空間を見詰め、ナディンは落胆に肩を落としてしまった。 そのナディンの肩を軽く叩いて、王がこの小さな少年の気を引きたたせようとする。 「バーニは恥ずかしがっているんだよ。ナディンがあまり可愛いのでびっくりしたのかもしれない」 「そうかしら…」 懸念は完全に消えてはくれなかったが、ナディンには父の言葉を疑うこともできなかった。 「きっとそうですよね。とてもお綺麗で――お父様に似てらっしゃるもの。お優しいに決まってます」 それでも落胆は払拭しきれない。ナディンは数ヵ月振りに会った父の温もりを離すまいとするかのように父の腕にしがみつき、いつまでもその手を離そうとはしなかった。 (弟……ナディンは母親の違うバーニの弟だったのね。だからバーニはあの夜、ナディンを抱きしめてやってたのね。あの時、ナディンとバーニは王とシュメールじゃなく、兄と弟だったんだ…。それなのに、私、妬いたりなんか……ナディンを妬んだりなんかして…) 後悔の念は、やがて、妬みでできた言葉や態度をナディンに直接ぶつけずに済んでよかった――という安堵に変わっていった。 そして、ナキアの視線はバーニを追う。 |