見知らぬ人のものになってしまった家に入ることもできず、ナディンはとぼとぼと狭い路地を当てもなく歩いていく。エリドゥの都のどこからでも臨める巨大な神殿王宮に戻る道を見失ったはずはない。兄のいる神殿に帰るのを、ナディンは恐れているのだ。それも無理からぬことだとナキアは思った。たとえ帰る場所がそこしかないのだとしても、そこにはナディンを抱きしめ口付けてくれる優しい兄はいないのである。 ナディンと擦れ違うエリドゥの都の住人たちも、この思い詰めた瞳の小さな男の子に声をかけようともしない。皮肉なことに、ナディンの身に着けている上等の衣服が、彼等にナディンに関与することをためらわせているようだった。 そうして最後にナディンが辿り着いたのは、エリドゥの都の外れにある小さな古い神殿だった。祈りの時間は過ぎたのか、レンガ造りの神殿の中には人ひとりいない。粗末な木の椅子が並ぶ礼拝堂の正面には、美しい女神の像がある。 「お母様…」 ナディンはその像の足元にへたりこむと、祈りの言葉を捧げることもできないまま、しくしくと泣きだした。 「僕、お兄様に嫌われちゃったの…。どうしよう…僕、お兄様に嫌われちゃったの…!」 女神の像に美しい涙をどれほど捧げても、ナディンを慰める神の手は現れない。シュメールでない者に神の手はそれほど遠いのだろうかとナキアが涙を零した時、彼は突然神殿の扉を開いてやってきた。 「そこのガキ、何者だ?」 聞き覚えのあるぶっきらぼうな声。長い銀色の髪を深い緑の長衣の肩に散らばせた不機嫌な女神――。 それはナキアの知る彼よりずっと若い、十六歳のナイドだった。 「ここは愛の女神イナンナの神殿だぞ。客も取れないガキの来るところじゃない」 ふいに現れたナイドは、驚きのあまり涙も止まってしまっているナディンの側にずかずかと歩み寄ると、その涙に濡れた頬を一瞥し、吐きだすように言った。 「いや、客はつきそうだな。これだけ綺麗なツラをしてるんなら」 ナディンが瞳を見開いて一言も口をきけずにいたのは、ナイドの乱暴な言葉使いに驚いたからではなかった。実際のところ、ナイドの言った言葉の意味は、ナディンには全く理解できていなかった。 ナディンはただ、ナイドの美しさに圧倒されていたのである。 それ自体が光を放っているような艶やかな銀髪。人の心臓を射抜くような紫色の瞳。その唇も鼻も眉も、ナディンが想像しうる"美しい人"の限界を越えて美しかった。 「女神様…」 驚きに息を飲んだナディンがやっと発することのできた言葉がそれだった。 その言葉に、ナイドが思いきり顔をしかめる。 「女神の神殿で阿呆なことを言う奴だな。女神の怒りを買うぞ、おまえ」 そう毒づきながら、ナイドは床にへたりこんでいるナディンの腕を掴み立ちあがらせた。 ナディンがその腕にすがりつくようにして、ナイドの顔を見あげる。そして彼はまだ半分涙の残った声で、叫ぶように訴えた。 「女神様、お願い! 僕をお母様のいらっしゃるところに連れてって!」 「迷子か、おまえ」 ナイドが右手で頭を掻きながら、ナディンを見おろす。到底女神のする動作とも思えないのに、それすらもナイドがすると優美に見えるから不思議だった。 「…お母様は神様の許にいらっしゃるって、お父様がおっしゃってました…」 「……」 "お母様のいらっしゃるところ"にナディンを連れていくことは、ナイドにもできない相談である。仕方なく、彼は、 「じゃ、オトーサマんとこに帰んな」 と投げだすように言った。 その答えに、ナディンが俯く。 子供が睫毛を伏せる様子で、ナイドは、死んだ者ではなく生きている者がこの少年に涙を流させているのだということを察した。 「オトーサマがおまえを折檻するのか」 「お父様は優しいの」 「じゃあ、継母にいじめられるとか」 「ママハハってなあに?」 「……」 どうやら継母のせいでもないらしい。 「なら、オニーサマかオネーサマが意地悪なのか?」 ナイドにそう尋ねられた途端、ナディンは激しく横に首を振った。 「お兄様は優しいの! 僕を抱きしめてキスしてくださるの!!」 まるでそんなことを尋ねたナイドを責めるようなナディンの口調に、ナイドはこめかみを引きつらせた。 優しいオトーサマとオニーサマがいるのなら、たとえ弟妹が生意気でも、近所にいじめっ子がいるのだとしても、耐えられないことはないではないか。 「だったら、オヤサシイオニーサマのとこに帰るんだな!」 ほとんど怒声になったナイドに、だが、ナディンはまだためらってみせる。 「お兄様は僕のことお好きかしら…」 お優しいお兄様どころか、この都には父も母もいない子供がいくらでもいる。母の面影さえ知らないナイドには、ナディンの逡巡が贅沢この上ない我儘に思えた。 いらいらしながらナディンを怒鳴りつける。 「おまえはどうなんだ! おまえは、そのオニーサマとやらが好きなのか!」 「大好き! お兄様はお父様と同じ色の目をしてらっしゃるの!」 間髪を入れずに、ナディンの答えが返ってくる。 ナイドはうんざりした顔になった。 「なら、それがいちばん大事なことだろ」 「……」 もういい加減にこんな甘ったれの相手はやめにしたいと、ナイドは思っていた。 そのナイドをナディンがぽかんと見詰めている。 「どーしたんだ」 軽蔑の混じった眼差しを向けられているからではなく、ナディンの瞳にまたじわりと涙が滲んでくる。 「お母様も……僕のお母様も同じことをおっしゃってました。お母様は僕を愛してくださってて、お父様を愛してらして、だから、とても幸せだったんですって」 「そりゃ、実に前向きな考え方だ。おまえとは大違いだな」 「お父様にはお母様より大切な方がいらっしゃったけど、それでもお母様はお幸せだったんですって…」 「……」 どうやらこの子供は、いい家でいい躾を受け、ただ母だけを欠いた甘ったれというわけでもないらしい。 親のいる子供がみな幸せというわけでもないか――と呟き、ナイドは、一粒だけ零れてしまったナディンの涙を人指し指で受けとめた。 「ともかく、おまえはここに入っちゃ駄目だ。家まで送ってやるから、ここを出ろ」 「え? あ、でも、女神様にそんなご迷惑…」 ためらうナディンの顎を捕らえ、ナイドはぐいと彼の顔を上向かせた。 「あのなァ、俺は女神なんかじゃなく、ただの人間だ。だいいち、よく見ろ。俺は男だぞ」 言われた通り、ナディンは大きな瞳をしっかり見開いて、しばらくじっとナイドを見詰めてみた。が、彼の言葉に得心はできなかったらしい。 「嘘……だってこんなに綺麗なのに…。人がこんなに綺麗なはずない…」 「どこが綺麗だってんだ」 「瞳が…澄んだ泉に映る菫の花のよう…」 それこそ澄みきった春の空のような水色の瞳でうっとりと見詰められ、ナイドの方が戸惑う。容貌を褒められるのには慣れていたが嫉妬も下心もない人間にここまで手放しで褒められるのは、ナイドも初めてだったのだ。 素直でまっすぐなその瞳に見詰められているのが苦しくなって、ナイドはふいっとナディンに背を向けた。扉に向かって歩きだしたナイドを、ナディンが小走りに追いかける。 「あ、じゃあ、きっとシュメールなんですね? シュメールって、神様に選ばれた美しい方々なんでしょう? 僕、まだお二人しか知らないんですけど、ほんとは六人いらっしゃるんだって聞いたことあります。お城から迎えに来てくださったの? もしかして……お兄様…が…?」 「お城からシュメールが迎え…? おまえ、いったい何者だ?」 反問するナイドに、ナディンが明るく答える。 「僕、ナディンです!」 「いや、そうじゃなくて…」 路地を抜け大通りに出ると、太陽は中天にあった。通りには市がたち、それが目当ての多くの住人たちが通りに出てきている。 それでなくてもナイドはこの都の有名人だった。そのナイドが彼に負けず劣らず――雰囲気はかなり違うにしても――愛苦しい面立ちの少年と一緒にいるのだ。人目を引くことは避けられない。 都の人々の好奇の目にナディンをさらさないために、ナイドは自然と足早になった。ほとんど走るようにして、ナディンがその後を追う。 通りの終着点である神殿王宮前の広場に出ると、ナイドはやっと歩調を緩めた。 |