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窓のとおく
  第一話 「雪の夜」

その日、この冬はじめての雪が降った。



自宅の最寄駅に着いたとき、既に日付は翌日に変わっていた。

駅から自宅まではほんの5分、しかも大通り沿いである。

まだそれなりに人通りがあるなか、夜半からちらつき始めていた雪がうっすらと積もった道を、私はゆっくりと歩いて行った。

しばらく行くと、道の真中に何かが横たわっているのが見えた。私の先を歩く人々は、まるでそれが水溜りか何かであるかのように、ごく自然に避けて行く。

それは一人の老婆だった。

一目見て浮浪者とわかる薄汚い身なりのその老婆を私は知っていた。数ヶ月前から自宅の近所の空き地で寝泊りしていた老婆だ。

大通り沿いの店の軒下に転がり夜を過ごしている姿もよく見かけた。しかし、道の真中に転がっているのを見るのは初めてだった。そして、最後でもあるのだろう。

明らかに老婆は死んでいた。

うっすらと雪に覆われたまま静かに横たわるその身体、眠るように目を閉じ口元には微笑みさえ浮かべた穏やかなその顔からは、何一つ、命ある者の徴を読み取ることはできなかった。

この老婆が物乞いをしたり残飯をあさっている姿を見たことはない。そうした暮らしになじめなかったのか。恐らくは栄養失調と寒さによる衰弱死だろう。

私が老婆の前で片膝を付いているあいだにも、私の後ろから歩いてきた人々が次々と私たちを避けて歩み去って行く。老婆に視線をやることも、老婆から視線を逸らすこともなく。



なぜ、私は立ち止まったのだろう。

ある人が言うように私がお人よしだからか。

別の人が言うように私が偽善者だからか。

それとも

老婆と同じような境遇の人々に混じり過ごした時期が私にあったからか。



私は近くのコンビニに入り、浮浪者が死んでいるので警察と救急車を呼んで欲しいと店員に告げた。

「もう連絡しています。もうすぐ来ると思いますよ。」

私の前に別の誰かが知らせたらしい。その人は既に立ち去ったとの事だった。

私ももう立ち去ろうか、そう思い店を出た私が老婆のもとに戻ると、ふたりの女性とふたりの子供が老婆のそばに居た。

ひとりの女性はエプロンをしている。この近くには、働く母親のために深夜まで子供を預かる保育所があるが、そこの保母さんだ。もうひとりの女性とふたりの子供は、そこに預けられていた子供たちと迎えに来た母親だろう。

ふたりの子供、おそらく姉と弟は、老婆の前にしゃがみ込み、小さなてのひらを合わせ、アーメン、アーメンと一生懸命に唱えている。

ふたりの女性は私の姿を見かけると何か言いたそうな素振りを見せた。

「もう警察と救急車を呼んでいますよ。」

それを聞くとほっとした様子でふたりは子供たちに視線を戻した。

「さあ、もうバイバイしましょうね。」

母親らしき女性がそう言うと、ふたりの子供は立ち上がり、老婆に向けてバイバイ、バイバイと小さな手を振りながら連れられていった。

あの姉弟はどんなふうに育つだろうか。

そんなことを思いながら三人を見送り、私が残るからと保母さんに告げると、彼女は会釈しながら保育所に戻っていった。



やがて、遠くからパトカーが、続いて救急車が近づいて来た。パトカーから降りてきた警官の一人は、私がかつて塾講師をしていたころの生徒の父親だった。彼は私の姿を見てちょっと驚いたようだったが、すぐに顔をほころばせた。

「先生がコンビニを通して知らせてくれたのですか?」

私がとうの昔に塾を辞めたのは知ってるはずだが、今でも彼は私を先生と呼ぶ。

「いえ、私の前の誰かが。もう立ち去ったようですけれど。」

簡単に事情を話すとすぐに解放された。

「あとは私たちでやりますので。」

「お願いします。」



老婆に背を向け家路を急ごうとした私はふと思い立ち、一度だけバイバイとつぶやいた。

幼い姉弟のお祈りと、静かに、夜を包むように降り続ける雪が、いつか私も帰ってゆくであろう何処かへと、彼女を導いてくれるように。



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