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窓のとおく
  第二話 「卑怯者」

ぼろ雑巾が座っていた。



浮浪者といっても様々だ。
小奇麗な身なりで時に微笑みさえ浮かべ、日雇いの仕事や靴磨きなどで日銭を稼いでいる者。
薄汚れた格好で何もかも諦めた目をさ迷わせ、残飯あさりや物乞いをして生きている者。
全身で世の中のすべてを憎み、拒絶し、黙々とダンボールを拾って回っている者。

そして、ぼろ雑巾。
おそらく、冬になれば無縁墓地に葬られることになるであろう者。



新宿南口から東へ下って行ったところにある映画館の脇に、そのぼろ雑巾は座っていた。

身にまとった布切れは、既に服としての体裁を成していないほどにあちこちが破れ、元の色がわからないほどに汚れている。辛うじて片足にのみ履いている靴下もぼろぼろで穴だらけだ。
布切れの間からはがりがりに痩せた体が覗いており、その皮膚は垢で赤黒く変色していた。
髪がほとんど抜け落ちてしまっているのは、栄養失調の為だろう。

右目は明らかに潰れていた。
残った左目は生気なく濁り、だらしなく開いたままの口からは涎が垂れている。

「う・・・お・・・へ・・・ふみ・・・っ・・・ぅお・・・」
時折、自分の前を通りかかる人にその虚ろな目を向け、何やらもごもごと口にする。
おそらく、お恵みを、と言いたいのだろう。
だが、ろれつの回らない口からのろのろと発せられる言葉が終わる頃には、既にその人は遠くに去ってしまっている。

皆、そのぼろ雑巾を見ようとはしない。その前で足を止めようとはしない。
ときおり小銭を放る者も居るが、そうした人も決して目を合わせずそそくさと去って行く。



けれど、その少年は見てしまった。足を止めてしまった。

まだ中学校に入ったばかりといったところだろうか。
詰襟の学生服を身に着けた幼い顔立ちのその少年は、ぼろ雑巾を見ると凍りついたかのように足を止めた。

「う・・・お・・・へ・・・ふみ・・・っ・・・ぅお・・・」
立ち止まった少年に、ぼろ雑巾が物乞いをする。自分という存在に目を向けたその少年に。

きっと電車にお年寄りが乗ってきたら席を譲るようなタイプなのだろう。
何か親切をしようという意思がその少年の表情から読み取れた。

だが、そのぼろ雑巾は、少年のささやかな親切には余りにも荷が重過ぎた。
少年は、自らの非力さを突きつけられる苦しさに耐えかねたかのように、ぼろ雑巾に背を向けるとそのまま歩み去ろうとした。

そのとき、ぼろ雑巾の濁った左目に激しい感情が宿った。



「ほん、ひひょうものはあ!」



この、卑怯者が。

ろれつの回らない口が、なぜこの言葉を一気に吐き出させたのか。
それほどまでに激しい感情が、このぼろ雑巾を支配したのか。

少年はぼろ雑巾に背を向けたまま、再び凍りついたかのように足を止めた。
そしてゆっくりぼろ雑巾の方に向き直ると、やにわに近寄り、ぼろ雑巾の痩せた垢だらけの手に何かを押し付けた。

それは千円札だった。

少年は、ぼろ雑巾に向かって深々と一礼をすると、再び背を向け駅の方に向かって駆け出した。

「あ・・・ふ・・・おぁ・・・」
ぼろ雑巾は、掌の中の千円札と駆けて行く少年の後姿をのろのろとと交互に見比べ、少年に向かって何か言葉をかけようとしたが、その濁った左目から激しい感情は既に消え、その口はもとのようにろれつが回らなくなっていた。



少年は、駅に向かってただひたすら駆けていった。

決して、振り返ることはなく。



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