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VEDANTA AND RELATED KEYWORDS
 

ヴェーダーンタって?  梵我一如  真理への道  オーム  ブラフマンとアートマン

 アハンカーラ・馬車の喩え マハーヴァーキャ  ヴェーダーンタと神  ヴェーダーンタ諸派

 ヴェーダーンタの教典  ヨーガ(ヨガ)  カルマ・輪廻

(順次追加予定です)

 

  • ヴェーダーンタって? 

  「ヴェーダーンタ」とは、ヴェーダの末尾(アンタ)という意味です。また、ヴェーダの究極の智識という意味にとることもできます。ヴェーダとはインドの聖典で、特定の作者はなく、古代の覚者たちが瞑想によって感知した普遍の真理であると言われています。ヴェーダは口伝され、4つに纏められました(リグ・ヴェーダ、ヤジュル・ヴェーダ、サーマ・ヴェーダ、アタルヴァ・ヴェーダ)。

  ヴェーダの末尾部分はウパニシャッド(奥義書)と呼ばれます。ヴェーダーンタ哲学は、このウパニシャッドの教えが基礎となっています。

 

 インドの主要な伝統哲学

  ・ 正統六派哲学(ヴェーダの権威を認める哲学)
      サーンキヤ派 ・ ヨーガ派 ・ ミーマーンサー派
      ヴァイシェーシカ派 ・ ニヤーヤ派 ・ ヴェーダーンタ派

  ・ 仏教

  ・ ジャイナ教

  ・ 唯物論





  • Aham Brahmaasmi (梵我一如) 

 私とは何か?

 誰もが自問することがあると思います。

  「私とは、この肉体である。」 でも、指が1本なくなっても私が減るわけではありません。細胞が生まれ死ぬたびに私が生まれ死ぬこともありません。

  「私とは、心である。」 でも、心はいつも環境に応じて変化し続けています。

 このように刻々と変化する「私」ではない、不変の自己というものは存在するのでしょうか。インドの覚者達は、深い瞑想によってこの疑問への答を見出しました。アドヴァイタ・ヴェーダーンタ(不二一元論)の思想を一言で表せば、それは「梵我一如」です。

  梵 ・・・・ ブラフマン・大宇宙・真理
         あらゆる属性を超え、すべてを包括する唯一存在

  我 ・・・・ アートマン・小宇宙・自己

 ひとつ(一如)ですから、本当は梵と我に分ける必要もないのですが。

  




  • 真理への道

  ヒンドゥー思想では、智識、信仰、行為の道が提示されています。

   智識の道(ニャーナ・マールガ) ・・・ 思索を重ね、瞑想によって主体と客体を超越する(梵我一如)

   信仰の道(バクティ・マールガ) ・・・ 神を客体として想い、それを高めることによって主体と客体を超越する

   行為の道(カルマ・マールガ) ・・・ 無私の行為を続けることによって主体と客体をを超越する


   *智識(jnana)は、「ジュニャーナ」とカタカナ表記されることが多いですが、インド人はこのように発音しません。
   鼻にかかったG音のような音で始まり、「ニャーナ」「ギャーナ」のように聞こえます。





  • OM(オーム)  

 いまや日本中の人が知っているこの言葉、その本当の意味は?

 聖音オームには、いろいろな解釈がなされます。例えば、それはA,U,Mに分けられ、それぞれは人間の3つの状態(覚醒・夢眠・熟睡)を表します。そしてこれらの音の後にくる静寂が、第4の状態−すなわち悟り−を表すのです。また、創造・維持・破壊という、宇宙の働きの象徴でもあります。さらに、物質世界の初期に発生し万物の基礎となっている波動をも表します。その中には全ての音が含まれ、そこから物の名称と形、すなわち概念が生まれるのです。

 このような哲学的な解釈もできますが、シンプルに言えば、概念を超えた偉大なものへの畏敬をこめた呼びかけ、それが「オーム」なのです。キリスト教の「アーメン」やイスラム教の「アミーン」と似ているのは、きっとこれらが究極的には同じものを指すからなのでしょう。仏教の真言の冒頭によくある「オン」も、オームを音写したものです。

 目を閉じて、呼吸を落ち着かせ、ゆっくり静かに「オーム」と唱えると、ひとときの心の静寂が得られます。






  • ブラフマンとアートマン

 ヴェーダーンタは、ブラフマン(唯一存在、真我)とアートマン(個我)の同一性を説いています。我々は本来ブラフマンであり、その性質はSat-Cit-Ananda(存在・意識・至福)であるというのです。

 ではなぜ我々は、ひとりひとり(ひとつひとつ)が独立したバラバラな存在だと感じているのでしょうか。それは我々の無明(avidya)によるものです。暗闇でロープを蛇と見間違えたとき、それは自分にとっては本当に蛇です。でも、ひとたび明かりが灯されると、それがただのロープだったことを知るのです。このように、無明が智識(jnana)の光で照らされるとき、梵我一如を知ることができると説かれています。そしてその光は、自らの修練と、師の導きと、よき人々との交わりによって得られると言われます。

 なじみのない考え方かも知れませんが、ふと自分や物の存在の独立性を疑う瞬間というのは、誰にでもあるのではないでしょうか?






  • アハンカーラ(自我)

 無明のために、我々は真理を体現できずにいるわけですが、では何が我々を無明の世界にとどまらせているのでしょうか。

 それは、アハンカーラ(自我、「私」意識)です。アハンカーラは、心や感覚器官を通して外界の対象物を欲望・嫌悪します。そして、これにはきりがありません。一時的に満足しても、すぐにまた次の欲望が湧いてきます。

 ブラフマンである自己を知るには、まず感覚をコントロールしなければなりません。

 

 <馬車の喩え> 

 カタ・ウパニシャッドには次のような喩えがあります。

 身体という馬車に自己が乗っている。理性という御者が心という手綱をひき、感覚器官という馬を操る。感覚器官の対象物は道であり、その道は真の自己へと続いている。






  • マハーヴァーキャ (4つの箴言)

 Aham Brahmaasmi (アハム ブラフマースミ)
  私はブラフマンである

 Ayamaatmaa Brahma (アヤマートマー ブラフマ)
  この自己がブラフマンである

 Prajnaanam Brahma (プラグニャーナム ブラフマ)
  意識がブラフマンである

 Tattvamasi (タットヴァマシ)
  汝はそれである

   真の存在を言葉で表すことは不可能です。「ブラフマン」「アートマン」「無我」などと命名した瞬間、
  それはもはや概念であり、自己と切り離された対象物になってしまいます。思考によって捉える
  ことはできないのです。だから我々はそれを、「それ」と指し示すことしかできません。






  • ヴェーダーンタと神

 ブラフマンを究極の真理とするヴェーダーンタの立場は、人格神を否定するように思われるかもしれませんが、そうではありません。ヴェーダーンタは、我々が知覚している現実世界を捨て去ることはありません。

 通常の思考では捉えることのできないブラフマンを、いきなり悟ろうとするのは困難です。そこで、わかりやすく概念化して、その偉大さを感じとる助けとします。神という概念を通して、その向こうの真理を目指すのです。

 不二一元論者のシャンカラも、ブラフマンのみが真実であるとしながら、同時に神々への賛歌をつくりました。もちろん、なにがしかの人格神を信仰しなければならないということもありません。



 




  • ヴェーダーンタ諸派

 ヴェーダーンタには、いくつかの論派があります。

   ・(純粋)不二一元論(アドヴァイタ・ヴェーダーンタ)

       シャンカラ(8世紀前半)に代表される、もっとも勢力のある学派。
       ブラフマンのみが実在であり、世界・個我は非実在だが、
       無明のために誤って実在とみなされる、とする。

   ・制限(被限定的)不二一元論(ヴィシシュタ・アドヴァイタ)

       ラーマーヌジャ(11世紀前−12世紀前)によって唱えられた。
       ブラフマン=神(ナーラーヤナ神)であり、世界と個我は神に
       依拠している(神を制限している)、とする。

   ・二元論(ドヴァイタ)

       マドゥヴァ(13世紀前−14世紀前)によって唱えられた。
       ブラフマン(=ナーラーヤナ神)、世界、個我はそれぞれ
       独立しているが、ブラフマンのみが唯一の実体である、と
       する。多元論的一元論。


   ・その他の論派 

 

 ラーマーヌジャとマドゥヴァの思想はバクティ(信仰)の要素が強く、大衆の支持を得やすかったと言えます。



  




  • ヴェーダーンタの教典

 ヴェーダーンタにおいて、次の3つの教典が「プラスターナ・トラヤ(三大経典)」と呼ばれています。教典というと宗教かなにかのように聞こえるかも知れませんが、インド思想において哲学と宗教は渾然一体となっており、明確に分けることはできません。

  ウパニシャッド・・・→ヴェーダーンタって?参照
  ブラフマ・スートラ・・・AD5世紀頃、ヴェーダーンタ学派の開祖バーダラーヤナによって編纂されたと言われている。
  バガヴァッド・ギーター・・・大叙事詩「マハーバーラタ」の一部をなす。






  • ヨーガ (ヨガ) 

 ヨーガとは、合一、調和という意味です。ヨーガの究極の目的は、自己と大いなる存在との合一(=解脱)なのです。これはまたヴェーダーンタの目指すところでもあるので、 ヴェーダーンタの観点からもヨーガの実修は推奨されます。

 ヨーガというと美容体操のようなイメージを持たれがちですが、このイメージは、本来のヨーガからかなりズレています。前述した広い意味でのヨーガもあり、また、狭い意味でのヨーガとして、多くの体系があります。例えば、ラージャ・ヨーガ、ハタ・ヨーガ、ギャーナ・ヨーガ、カルマ・ヨーガ、バクティ・ヨーガ、タントラ・ヨーガなどです。美容体操に思われがちな、いわゆるヨガは、アーサナと呼ばれる実修法の一種です。アーサナは、ラージャ・ヨーガやハタ・ヨーガに組み込まれています。

 なぜアーサナをするのでしょうか。それは、身体のバランスを得ることによって心を安定させるためです。安定した身体と心があってはじめて、瞑想が可能となるのです。そして瞑想は解脱へと導かれます。「ヨガで健康を得る」というのもひとつの目的には違いないのですが、本当はさらに深い目的があるわけです。

 アーサナは、奥深いヨーガの一部分にすぎません。呼吸法や瞑想、祈り、無私の行為 ── 解脱につながる働きはすべてヨーガです。我々の日常生活も、(そうと意識していなくても)ヨーガになりうるのです。



 




  • カルマ

 インド哲学の特徴的な思想のひとつに、カルマという考え方があります。
カルマとは、「行為、またはその結果」という意味の言葉です。ひとは生きているかぎり、さまざまな行為をなし、その結果を受けて新たな行為をなし続けています。このカルマを積み重ねて生きている以上、我々は生死の輪廻を繰り返すというのです。
 でも、真の自己は肉体と心を超えた不変のものです。輪廻を断ち切り、真の自己を実現するには、カルマを滅しなければなりません。どうすればそれが可能でしょうか?それは、自我を超えた行為によって可能となります。私欲を求めない行為は、カルマを生み出しません。

 忘れてはならないのは、カルマ・輪廻といった概念は、あくまでも無明の見地から現象界を理論づけるためのものだということです。真理の見地からすれば、それは存在しないもの、虚構なのです。また、自我を超えた行為とは、自己を見失った行為や滅私奉公とは異なります。小さな自我のかわりに大きな自己がそこにはあるのです。