「・・・ですから彼は本当に毎日遅くまで頑張ってくれ・・・いえ!決してそのようなことは・・・」
その日、打ち合わせから課に戻ってみると、課長が青い顔をしながら電話に向かって謝罪しており、その脇で先輩社員のFさんが沈痛な面持ちで立ち尽くしていました。
受話器からは女性のものと思しきヒステリックな叫び声が微かに聞こえます。
私は自席に戻ると、その日配られた給与明細の袋を明けながら、別の先輩にそっと尋ねました。
「(どうしたんですか?ユーザーからクレームですか?)」
「(いや、Fさんの奥さんからだよ。)」
「(えっ!?本当ですか?)」
当時、私の所属していた課は、某大企業Aが我社を含む数十社から数百人のシステムエンジニア、プログラマーを集めて行っていた大プロジェクトに参加しており、課長以下課員全員が某企業Aの一角に席を与えられ、そこで仕事をしていました。
百人以上が一週間以上泊まり込んだり、睡眠時間が週十数時間という日が数ヶ月続いたりと無茶苦茶なプロジェクトで、私の同僚も含め何人も病院送りになった過酷な職場でした。
F先輩は、学生時代にラグビーをやっていたせいかとても頑健な方で、このような過酷な職場でも精力的に仕事をこなされ、課の中でもリーダー格の一人として活躍されていました。
ところが、一つ問題が。
F先輩の奥さんが、ちょうど妊娠中だったのです。
連日のように終電、泊まり込み、土日出勤を繰り返すF先輩に、自分が妊娠中なのを良いことに浮気をしているのではないかと奥さんが疑い出した、と先輩が愚痴っているのは知っていました。
先輩夫婦は当時結婚2年目で、先輩が7歳も年下の奥さんをとても大事にしているのを知っていた私達は、何をのろけてるんだか、と苦笑していたのですが、まさか本当だったとは。
「はい、これからお伺いしてご説明差し上げますので、はい、はい。」
どうやら、課長は直に説明しに行くことにしたようです。
当然ですが、課長も暇なわけではありません。
それでも行くとは、奥さんの様子によほど徒ならぬ物を感じたのでしょうか。
後の指示を簡単に出すと、ひたすら恐縮するF先輩を連れて、課長は先輩の家へと向かいました。
上手く納得してもらえればよいのですが・・・。
「あ、課長、どうでした・・・う・・・わ・・・」
夕方になって一人で戻ってきた課長の額の大きなあざが、全てを物語っていました。
課長の話によると、奥さんの取り乱しようは尋常ではなく、とりあえずF先輩には奥さんの側に付いていてもらうことにした、とのこと。
先輩夫婦のご両親はどちらも遠く離れて暮らしており、奥さんは日中一人になってしまうのですが、それに加えて最近は、F先輩が夜も帰ってこず土日も出かけてしまうので、事実上ずっと一人きりだったようです。
それでもじっと耐えていたのが、妊娠中という事もあって不安が高まり、限界に達してしまったのだろう・・・。
泣き叫ぶ奥さんに灰皿をぶつけられたという額のあざをさすりながら、課長は言いました。
とりあえず、明日には奥さんのご両親が上京してくるとのことですが、それで落ち着いたとしてもF先輩にはまだまだ仕事で頑張ってもらわなければなりません。
それに、あまりに精神的に不安定だと流産の心配もあります。そうなったら取り返しがつきません。
会社として、奥さんに納得してもらうにはどうしたら良いでしょう。
「部長に説明に行ってもらってはどうでしょう。」
「課長でだめだったら部長でも同じだろう。」
「職場に来てもらって実態をみてもらえば・・・。」
「ここの職場、三分の一が女性だぞ?それこそ取り返しがつかなくなるって。」
「女性陣は役職者を除いて22時には帰宅してもらってますから、それから来てもらえば。」
「某企業Aの建物なんだぞ、ここは。部外者の夜間入館許可を出してくれるかどうか。」
とりあえず明日、部長に事情を話して説明に行ってもらうよう要請することになりました。
本当にどうなってしまうのか。
その日、職場の仮眠室に泊まった私は、不安に駆られながら夜を明かしました。
明けて翌朝。
事態は一気に解決へ向かいました。
F先輩から電話があり、奥さんが納得してくれた、というのです。
ほっとした私達は、F先輩がどうやって奥さんに納得してもらったかで盛りあがりました。
きつい一発で納得してもらったのだろう、とか、
妊婦にきつい一発はまずい、ソフトタッチで納得してもらったのだろう、とか、
とりあえず愛は勝つ、とか。
みんな仕事に疲れ果てているところに今回の事件で不安に駆られていただけに、その反動から異様に盛りあがりました。
終わり良ければ全て良し。無事に過ぎてしまえば笑い話です。
午後、上京した来た奥さんの両親に後を任せたF先輩が、笑顔で出勤してきました。
「ご迷惑をおかけしました。」
「いや、納得してもらえてよかったよ。」
「部長にも出向いてもらおうかって言ってたんですよ。」
「えっ!?本当ですか?すみません。」
「それにしても、どうやって納得してもらったんですか?」
「ああ、それはですね。」
皆が注目する中、F先輩は仰いました。
「給与明細の残業代が異常に高額だったので信じてくれたんです。」
「・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・そ、それは」
「・・・・・・・・・・よかった、です、ね」
「ええ、本当に。」
家庭崩壊の危機を乗りきった安堵のためか、心の底から嬉しそうに笑うF先輩に、それが何を意味するのか突っ込む勇気のある者は居ませんでした。
あれから何年も経ちました。
あのとき奥さんのお腹の中にいた男の子も、来春には小学校に上がるということです。
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