標高約500m、気温がまだ10℃そこそこなので、最近忘れかけた冬の寒さを思い起こさせる。私を包むように広がる周囲の森は新しい季節を受入れはじめ、ゆっくりと少しずつ淡い色の小さな息吹で枝先を覆い始めた。ほんの少しだけ遅い春がここにも訪れたようだ。
森を裂くように走る岩だらけの小さな渓流からは、春の訪れを知らすように、元気で楽しそうな鳴き声が聞こえている。ゴツゴツとした大きな岩の間を出たり入ったりしながら忙しそうに歩き周り、出来たばかりの縄張りのパトロールをしている茶色の小さな鳥「ミソサザイ」がその声の持ち主だ。小さな渓流を上から下に、下から上に順番に確認するように歩き回り、時々朽ちた木の上や岩の上で立ち止まり、口を思いっきり開けて大きな声を響かせている。あの小さい身体のどこからこんなに大きな声が出せるだろうといつも思うほど、そのメッセージは強烈だ。
ミソサザイが暮らすこの小さな渓流は、周りを背の高い木に囲まれている山の北斜面にあり、陽の光はなかなか届かない暗い場所だ。ちょこちょこと動き回る小さな鳥を撮影するのに有利と言える状況ではない。フィルムで撮っていた頃なら、1段増感して祈りながらシャッターを切るシーンだろう。今は少しだけ楽になったと言うか、諦めずに撮影する事が出来る。技術の進歩はありがたい。ダイヤルを回してISOを250まで上げて露出を確認するとSSは1/60まであがった、これなら囀りのリズムに合わせ、一番口が開いた瞬間を狙ってシャッターを切れば何とかなるだろう。やがて、下流の方からミソサザイの囀りが聞こえはじめ、私のいる場所に近づいて来た。先程ミソサザイが鳴いていた岩の上にレンズを向け、ピントを合わせて岩のように動かずに彼が現れるのを待った。
声はだんだん大きくなり、ふっと気がつくと手を伸ばせば触れられそうな、1m程右の岩の上をミソサザイが歩いていた。近くで見るとその小さい身体はさらに小さく感じる。親指と人差し指で作った輪ぐらいの大きさだろうか、小さな尾羽を時々ピョンと上げて可愛いポーズを見せてくれる。ミソサザイは岩の上を上流に向かい、そして一瞬姿を隠した後、ピントを合わせておいた岩の上に跳び載った。そして、大きな口を開け歌いはじめた。
木々の芽吹きが終わり濃い緑が茂る頃、ミソサザイは鳴く暇もなく子育てに忙しくなるのだろう。歌声がしない森の渓流は新しい命の成鳥を静かに待ち、やがて次の季節を向かえる。毎年繰り返されている命の営み、この営みが永遠に続き、可愛らしい姿のミソサザイとその美しい歌声が毎年楽しめますように、そう思いながら渓流を後にした。車を走らせながら見上げた空が少しだけ薄紅色に染まっていた。(平成21年4月記)
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